神聖ローマ帝国の領邦数とその変遷

神聖ローマ帝国って、「ひとつの帝国」と言いながら、実は小さな国や都市が山ほど集まった集合体でした。
じゃあ、いったいその中にいくつの“領邦”があったの?って話になると……これがまた時代によって変わるし、定義もあいまい。でも、そこをあえて紐解いてみると、帝国の構造や変遷がすごく見えてくるんです。
この記事では、神聖ローマ帝国の領邦の数とその変遷を、時代ごとの特徴とあわせて整理してみましょう!

 

 

そもそも“領邦”ってどういう意味?

まずは「領邦(りょうほう)」という言葉が、神聖ローマ帝国で何を指しているのかを確認しておきましょう。

 

“帝国内の半独立ミニ国家”

領邦とは、神聖ローマ帝国内に存在した自治権を持つ地域勢力のこと。具体的には、

 

  • 公爵領・伯爵領などの貴族が支配する地域
  • 司教領・修道院領などの宗教権力が統治する地域
  • 皇帝直属の自治都市(帝国都市)

 

こうしたものを全部ひっくるめて「領邦」と呼びます。つまり、皇帝が直接支配していない“ほぼ自営業”な地域たちです。

 

領邦の地位は“公式化”されていた

領邦たちは、帝国の中で正式に認められた存在で、帝国議会に代表を送り、法律にも関与していました。
一方で、外交や徴税、軍備なども独自に行うなど、実質的には国に近い存在だったんです。

 

最盛期は“300以上の領邦”が存在!

では、領邦の数がどれくらいあったかというと、最も多かった時期には300を超えていたとされています。

 

17〜18世紀には“断片化のピーク”

特にバラバラ感が極まったのが、三十年戦争(1618〜1648年)後のウェストファリア条約以降
この条約で、各領邦に事実上の主権(外交権)が認められたため、完全に“ゆるゆる連邦国家”になってしまいます。

 

当時の構成例としては:

 

  • 約300の領邦(諸侯・教会領・都市国家)
  • うち180以上が帝国議会の投票権を保有
  • それ以外にも、名ばかりの領地や微小勢力が無数に存在

 

この状態を「ドイツの千の断片(Kleinstaaterei)」と呼ぶこともあります。

 

その中でも“規模も影響力もピンキリ”

ザクセンやバイエルンのように、広大な領土と軍事力を持つ大領邦もあれば、 領主が“城ひとつ”しか持ってないような超ミニ国家も混在していたんです。帝国っていうより「寄り合い所帯」みたいですよね。

 

時代ごとの領邦数のざっくり変遷

実際にどのくらいの数の領邦があったのかを、ざっくり時代別にまとめてみましょう。

 

時期 おおよその領邦数 背景
10〜12世紀(オットー〜ザーリアー朝) 約50〜100 皇帝権力が強く、領邦はまだ限られていた
13〜15世紀(ホーエンシュタウフェン以降) 約200 イタリア政策の失敗、諸侯の独立化が進む
16〜18世紀(宗教改革〜啓蒙期) 300以上 宗教対立と帝国議会制度の制度化により分裂ピーク
1803年(帝国の終焉直前) 約40 帝国代表者会議主要決議(Reichsdeputationshauptschluss)により大幅再編

 

1803年の“整理整頓”で一気に縮小

ナポレオン戦争が進行する中、神聖ローマ帝国はついに領邦を大規模に削減することに。
多くの教会領や小国家が世俗領邦に吸収され、領邦数は一気に1/10以下へ。
この最終整理が、帝国の終焉(1806年)への流れを決定づけました。

 

神聖ローマ帝国の領邦数って、多すぎて個別に名前なんて覚えてられないレベルなんですが、それだけ多様性と歴史の厚みがあったってことでもあります。
「中央集権化しなかったからこその文化の蓄積」――それがこの“バラバラ帝国”の魅力でもあるんです。