

「神聖ローマ帝国」と聞くと、皇帝がいて、帝冠があって、なんとなく“強そう”なイメージを持つかもしれません。でも実はその実態、内戦と権力争いの連続だったんです。
なぜかというと──この帝国、「まとまっていないのにまとまろうとした」存在だったから。皇帝も諸侯も教会も、みんなバラバラの思惑を抱えたまま、同じ“帝国”の看板の下でドンパチを繰り返していたんですね。
この記事では、神聖ローマ帝国がなぜここまで“内戦体質”だったのか、その根本原因を3つに分けて解説していきます。
そもそも神聖ローマ帝国は、現代の意味での“国家”とはぜんぜん違ったんです。
帝国内には大小300以上もの諸侯領・教会領・自由都市があり、それぞれが“ほぼ独立国”のようにふるまっていました。自前の軍隊、税制、法律まで完備。そんなバラバラの集団を「皇帝のもとにまとめよう」とする方が、むしろ無理筋だったわけです。
「皇帝の命令なんてうちは聞かない」という態度も普通にアリな時代。まとまらないのが前提の国だったんですね。
皇帝は選帝侯による選挙制で選ばれ、諸侯の支持なしには成立しません。そのせいで就任時には「特権を認めるから票をくれ」なんて政治的取引が当たり前。結果として、皇帝は諸侯に弱腰にならざるを得ず、内戦を未然に防ぐような強力な権限を持てませんでした。
特に16世紀以降、内戦の最大の火種は宗教になっていきます。
1517年、ルターが95ヶ条の論題を発表してから、プロテスタントとカトリックの対立が激化。しかも帝国内の諸侯たちが宗派ごとに分かれて争いはじめ、「信仰を守る=武力でぶつかる」という構図が常態化してしまいます。
たとえばシュマルカルデン戦争や三十年戦争は、もともと内部の宗教対立が原因。これはもう「戦争の種が標準装備されてる」みたいな状態ですね。
1555年のアウクスブルクの和議では「領主の宗教が民の宗教」とされましたが、これによって諸侯ごとのバラバラな宗教政策が合法化。つまり、ひとつの帝国の中で複数の宗教体制が並立することになり、火種はくすぶり続けたのです。
もうひとつの重要な背景は、“やられたらやり返す”という封建時代の論理。
中世の神聖ローマ帝国では、しばしば私闘(フェーデ)という形で諸侯どうしの争いが発生していました。たとえば「領土を奪われた」「馬車が襲われた」「名誉を傷つけられた」などが理由になり、個人や一族単位で戦争が始まるのです。
しかも、これがしばらくの間合法でした。つまり、ちょっとした争いがすぐ武力衝突に発展する、非常に“爆発しやすい”社会構造だったんです。
上で述べたように、帝国議会や皇帝には強制力がなく、「戦争しないで裁判で解決しようね」が通じない世界。だから、結局は武力で決着をつける方が“現実的”だったわけです。