
「選帝侯(せんていこう)」――神聖ローマ帝国を語るうえで必ず出てくるこのワード、「なんか偉そうな貴族っぽいけど、何してたの?」「どうやったらその地位になれるの?」って気になりますよね。
実はこの選帝侯たち、単なる有力者じゃなくて、皇帝を選ぶ超特権階級だったんです。
しかも、選べるけど支配はされないっていう、まるで“ラスボスにしか物申せない裏ボス”みたいな存在。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国の選帝侯って何者だったのか?何ができたのか?どうやってなれたのか?を、わかりやすく解説していきます!
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選帝侯(Kurfürsten)は、神聖ローマ帝国において「皇帝を選ぶ権利を持つ領主」たちのこと。
つまり皇帝になるには、彼らに「この人にしよう」と選んでもらう必要があったんです。
1356年、皇帝カール4世が発布した金印勅書によって、選帝侯の数と地位が正式に定められます。
このとき定まったのが「7人の選帝侯」という基本セット。
選帝侯の地位 | 所属 |
---|---|
マインツ大司教 | 教会 |
ケルン大司教 | 教会 |
トリーア大司教 | 教会 |
ボヘミア王 | 世俗 |
プファルツ選帝侯 | 世俗 |
ザクセン選帝侯 | 世俗 |
ブランデンブルク選帝侯 | 世俗 |
このうち3人が教会側、4人が世俗の領邦君主という構成。
宗教と政治のバランスを取る、神聖ローマ帝国らしいラインナップですね。
皇帝を選ぶだけでもすごいけど、実は選帝侯には他にもいろいろ特権がありました。
最大の特権はもちろんこれ。皇帝の即位=選帝侯の投票によって決まるという絶対的な権利です。
しかも1人1票のガチンコ多数決。
皇帝候補は、選帝侯に支持を取り付けるために必死でした。
選帝侯は、自分の領地内では独自に法律を作ったり、軍を率いたり、通貨を発行したりすることも可能。
実質的には“ミニ国家の君主”だったわけです。
選帝侯の中には、帝国全体の大法官(カンツラー)や元帥(マルシャル)などを務める人もいて、皇帝の下で帝国を動かす“実務の中心”にもなっていました。
基本的に選帝侯の地位は世襲制または教会職の兼任だったので、「実力でなってやる!」っていうよりは、血筋か宗教的キャリアで決まってました。
ブランデンブルク家(のちのプロイセン王家)やザクセン家など、有力諸侯の間で世襲されていく地位でした。
ただし、戦争や内乱で「お前もうダメだわ」と取り消されることもアリ。
マインツ、トリーア、ケルンの大司教はカトリックの高位聖職者ですが、単なる宗教者じゃなくて帝国の有力政治家でもありました。
選出には皇帝や教皇、地元貴族の思惑が入り乱れてたんですよ。
神聖ローマ帝国の終焉とともに、この制度も1806年で終了します。
でもその影響は、のちのドイツ統一や王侯制度にもしっかり残りました。
たとえばブランデンブルク選帝侯は、のちにプロイセン王を名乗って独立します。
また、ザクセン選帝侯やバイエルン選帝侯も、後に王国として昇格していきます。
選帝侯制度は、皇帝=世襲ではなく合意で決める仕組みだった点が画期的でした。
これは、のちの近代的な合議制・選挙制度の原型にもつながっていくんです。
選帝侯は、神聖ローマ帝国における“帝国の実質的オーナー”とも言える存在でした。
皇帝を選べるけど、命令はあまり聞かない――そんな絶妙な立ち位置が、この帝国のバランスを保ってたんですね。
選帝侯を知ると、神聖ローマ帝国がなぜ“まとまらなかった”のかもちょっと見えてきますよ。