
「王様なのに選挙で決まる?」―― そう、神聖ローマ帝国をはじめ、中世~近世のヨーロッパでは実はけっこう「選挙で王を選ぶ」=選挙王制が行われていたんです。
一見すると民主的っぽく聞こえるこの制度、実はいろんな強みと同時に、ものすごい弱点も持っていました。
今回は、神聖ローマ帝国を中心に、選挙王制の仕組み・メリット・デメリットを、ポーランドやチェコ、ハンガリーなど他国の例とも比べながら解説していきます!
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まずは基本から。選挙王制とは、君主の地位を世襲ではなく選挙によって決める政治制度のことです。
皇帝や王になるには、有力な貴族・聖職者などの選挙人から支持を得る必要があったんです。
1356年の金印勅書で制度化された神聖ローマ帝国の選挙王制では、選帝侯(7名)が皇帝候補を選出。
過半数の支持を得た者が「ローマ王(=皇帝候補)」に選ばれ、のちに戴冠して正式な皇帝になります。
国名 | 選挙主体 | 特徴 |
---|---|---|
ポーランド | 全貴族(シュラフタ) | 大規模な自由選挙。外国人王の登場も |
チェコ(ボヘミア) | 有力貴族・司教など | 神聖ローマ帝国と連動していた時期あり |
ハンガリー | 貴族・聖職者 | オスマン帝国との戦争で選挙に混乱も |
いくつかの点で、選挙王制は時代に合った“柔軟な君主制”として有効でした。
世襲じゃないので、「あいつヤバい息子しかいないんだけど…」という不安がない! 例えばフリードリヒ1世バルバロッサのような実力派の君主が誕生したのも、先代の皇帝が血筋ではなく実力で後継者を指名したからです。
バルバロッサの登場は帝国内の分裂を食い止め、皇帝の権威回復に大きく貢献しました。選挙制のおかげで、国内の有力諸侯たちも無能な後継者に悩まされることが少なくなり、帝国内に安定と繁栄をもたらすことができたんですね。
「誰が王になるか」は話し合いと合意で決まるので、それによって有力者同士の権力争いを調整できるという利点もありました。
とくにポーランドでは、「自国の王をどこの王族から選ぶか」が外交戦略として使われ、時にはフランス人やスウェーデン人の王様が即位したりもしました。
一方で、選挙王制は不安定さと腐敗の温床にもなりやすかったんです。
候補者は支持を得るために莫大な賄賂・特権・土地の譲渡を行うこともありました。
これにより、即位前から王が諸侯に借りを背負ってスタートすることになり、統治が難しくなります。
選ばれた王様は、「俺が上だ!」と言いたくても、選んでくれた貴族たちに「じゃあ次は別の人で」と言われたら立場が危うくなる……
つまり、王の“絶対的正統性”が弱くなりやすいという問題がありました。
後継ぎが未定のまま王が死ぬと、すぐに後継者レース→内戦になりやすいです。
神聖ローマ帝国でも、大空位時代(1254–1273年)などはまさにこの問題で政治が麻痺しました。
帝国後期になると、選挙王制は“形式だけ残って実質世襲”という方向に変わっていきます。
15世紀以降、ハプスブルク家が選挙で毎回勝ち続けたため、形式上は選挙でも実質は世襲王朝化していきます。
選帝侯たちも「まぁ毎回あの家でいいよね…」という雰囲気に。
制度としての選挙王制は最後まで残りました。
1806年に帝国が消滅するまで、皇帝は毎回「一応」選ばれていたんです。
選挙王制は、柔軟さと調整力を持つ一方で、不安定さと“言うことを聞かない貴族たち”という弱点も抱えていました。
神聖ローマ帝国も、ポーランドも、チェコも、こうした選挙王制を通じてバランスと混乱の間をずっと揺れていたんですね。
まさに「みんなで王様を決めるって難しい!」という歴史の教訓そのものです。