
大空位時代――つまり皇帝の座がしばらく空っぽになってしまうという異例の時期が神聖ローマ帝国にはあったんです。
でもこれは単なる人材不足とかじゃなくて、帝国の仕組みや皇帝と諸侯の関係が根本から揺らいでいたことの現れでもありました。
この記事では、大空位時代がなぜ起こって、どうやって終わったのかをわかりやすく整理してみます!
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この時代が始まったのは、皇帝フリードリヒ2世の死(1250年)とその息子コンラート4世の早すぎる死(1254年)がきっかけでした。
でも問題は「後継者がいない」じゃなくて、「誰を立ててもまとまらない」という、もっと根深い事情にあったんです。
フリードリヒ2世はカリスマ性のある皇帝でしたが、その統治スタイルはかなり中央集権的。
しかもイタリア政策に夢中で、ドイツの諸侯たちからすると「自分たちを無視してるじゃん…」という不満がたまっていました。
そんな中でホーエンシュタウフェン家の後継者が亡くなり、諸侯たちの「自分たちで決めたい」気持ちが爆発していきます。
選帝侯たちにとっては、強すぎる皇帝よりも自分たちで動きやすい環境のほうがありがたかったんです。
実際この時期、諸侯や都市国家はそれぞれの領域を強化し、皇帝抜きでもやっていけるじゃんという雰囲気すら出てきました。
この結果、皇帝候補が出てもみんなが一致せず、「なんとなく選ばない」時期が続いてしまったんですね。
「じゃあずっと皇帝なしでよかったんじゃない?」と思いたくなるんですが、そうもいかないのが当時の国際情勢と内政事情。
ここからは、大空位時代がなぜ終わりを迎えることになったのかを見ていきます。
皇帝が不在の間、ローマ教皇は「これで俺の時代だ!」とばかりに、帝国の政治に介入を始めます。
でもこれは逆に、諸侯たちの間で「やっぱり皇帝って必要かも…」という意識を高める結果になりました。
皇帝がいないと、外から口を出され放題になってしまうというジレンマがあったんです。
皇帝がいないことで自由に動けた諸侯たちですが、あっちでもこっちでも小競り合いが起こり、 「これはマズいぞ」と思った人たちが増えていきました。
最終的には、「もう誰か立てよう」との流れになって、1273年、ハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝に選ばれます。
皇帝がいなかったこの20年近くの時代は、帝国にとってすごく貴重な反省材料にもなったんです。
この時代を経て、帝国では「諸侯の合意を得られる皇帝」こそが理想だという認識が広がります。
中央集権でもない、完全な分裂でもない、その中間でどうやってバランスをとるか。
この“絶妙なゆるさ”が、のちの神聖ローマ帝国の特徴になっていくんです。
この時期に諸侯が味わった「皇帝を選ぶって、意外とイケる!」という感覚は、のちに金印勅書(1356年)で制度化され、選帝侯制度が正式に固定されます。
つまり、大空位時代は「皇帝って何?」「誰が選ぶの?」という問いへのひとつの答えを導いた時代でもあったんです。
大空位時代は、皇帝がいないことで帝国が自由になった反面、秩序も信頼もバラバラになってしまった時代でした。
この経験から、「やっぱ皇帝って必要なんだな」と気づいた諸侯たちが、自分たちの手で新たな皇帝を選び直した――
そういう意味で、帝国が“自分で自分のあり方を考え直した”、ものすごく大事な時間だったんですよ。