
14世紀の神聖ローマ帝国地図
形式上ドイツ・北イタリア・ブルグントを含む広大な領域を保ちつつも、諸侯の自立が進み皇帝の統制力は著しく低下していた
出典:Captain Blood(著者) / CC BY-SA 3.0/GNUフリー文書利用許諾契約書より
「滅亡」までいかなくても、神聖ローマ帝国がどんどん“弱体化”していった時代──それが衰退期です。じつはこの衰退、ある日突然始まったわけじゃなく、ゆっくりジワジワと進行していったんです。そして気づいたときには、「もう昔のようには戻れない」というところまで来ていた…。
では、その衰退を加速させた原因とは何だったのか?
この記事では、神聖ローマ帝国の“終わりへのカウントダウン”を早めた3つの要因を、具体的に見ていきます。
まず最初に挙げたいのが、ヨーロッパ史屈指の“破壊的な戦争”──三十年戦争(1618~1648)です。
この戦争、実は神聖ローマ帝国内の宗教対立から始まったもの。カトリックの皇帝と、プロテスタントの諸侯たちがバチバチに対立し、そこにフランスやスウェーデンなどの周辺国まで介入してきて、戦場は大混乱。
結果、ドイツ中が荒れ果てたんです。人口は激減し、都市も農村もボロボロに。とくにライン川周辺などでは、戦後数十年たっても回復しなかった地域もあるほど。
そして戦後に結ばれたヴェストファーレン条約(1648)によって、皇帝の権限はさらに縮小。諸侯たちはほぼ完全な主権国家のような存在になり、帝国の統一性は風前の灯火に。
この条約を境に、神聖ローマ帝国は「皇帝のいる国家」から「皇帝が“いるだけ”の国家」に変わってしまったんですね。
次に、周辺諸国からの干渉によって、帝国の影響力がどんどん削られていった点も見逃せません。
17~18世紀にかけて、ルイ14世率いるフランス王国がグングン勢力を伸ばしていきます。彼は「朕は国家なり」でおなじみの絶対王政の象徴で、周囲の諸国を次々と従属させていったんです。
神聖ローマ帝国もそのターゲットのひとつ。アルザスやロレーヌなどの国境地帯を奪われ、西側の防衛線がズタズタにされていきました。
南東からはオスマン帝国が侵攻。とくに1683年の第二次ウィーン包囲では、首都ウィーンが包囲され、帝国の中枢が危機に。かろうじて撃退したものの、帝国の軍事的脆弱さが露呈しました。
対外的な脅威に対して、帝国が統一的に対応できなかったことが、衰退を深刻化させたわけです。
最後のポイントは、「皇帝ってなんのためにいるの?」という根本的な問題です。
16世紀以降、皇帝位はほぼハプスブルク家の世襲になっていきました。そのため、皇帝は「帝国の代表」ではなく、「オーストリアの王が名誉的に兼ねてる役職」みたいなポジションに。
しかもオーストリアはハンガリーやボヘミアなども支配していたので、帝国と無関係な地域に夢中になってることも多かったんです。
帝国の運営を担う帝国議会(ライヒスターク)も、形式だけの存在に。何か決めようとしても、意見がまとまらず、実行力ゼロ。
こうして、帝国は“意思決定できない組織”になっていき、誰も本気で「神聖ローマ帝国を復興しよう」とは言わなくなったわけです。