
神聖ローマ帝国って、「誰がいい皇帝だったの?」って聞かれると、ローマ帝国みたいに“五賢帝”みたいな分かりやすいセットが思い浮かびにくいですよね。
でも実は、神聖ローマ帝国にも「この人は名君だった!」と後世に評価された“実質的な五賢帝”とも言える皇帝たちがいるんです。
もちろん公式に「五賢帝」と呼ばれているわけではありませんが、今回は統治力・文化政策・政治手腕・国際影響力などから、神聖ローマ帝国版「五賢帝」をセレクトしてご紹介していきます!
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神聖ローマ帝国の“はじまり”を築いた男。
帝国の父と称されるにふさわしい名君中の名君です。
東フランク王として即位し、955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退。
そして962年、ローマ教皇から皇帝の冠を授かり、神聖ローマ帝国の原型を確立。
教会との協力体制や諸侯とのバランスを取りつつ、“帝国という枠組み”を制度化した立役者です。
中世ドイツの英雄的存在で、皇帝の権威を復興させた“カリスマ皇帝”。
バルバロッサ(“赤ひげ”)の名で親しまれ、イタリア政策に熱心に取り組み、ロンバルディア同盟との激突など積極外交を展開。
皇帝権力の強化と同時に法律や行政の整備にも力を入れ、まさに“中世の統治者”としての理想像を体現しました。
しかも十字軍遠征中に戦死したこともあり、後世では「眠れる皇帝伝説」にまで発展。今なお語られる名君です。
帝国の空白期「大空位時代」を終わらせた、ハプスブルク家初の皇帝。
1250年にフリードリヒ2世が死去してから帝位が不安定になっていた中、ルドルフ1世が選出され、秩序が回復。
彼は皇帝権力の現実的な制御を重視し、無理な中央集権を避けながら、法と秩序の回復に努めました。
また、オーストリアをハプスブルク家の本拠地とし、“帝国の屋台骨”を築いたのも彼の大きな功績です。
文化人・法整備者・都市の守り手――多面的な魅力を持つボヘミア出身の皇帝。
1356年に発布された金印勅書によって、皇帝選出の制度を明文化。
帝国の政治体制を安定させた法的枠組みの整備者です。
また、彼の治世でプラハ大学(現在のカレル大学)を創設し、プラハを文化都市として大発展させました。
宗教・学問・統治のバランス感覚に優れた、“理想の中世皇帝”とも言える存在です。
神聖ローマ帝国を「ドイツ民族の帝国」へと導いた、近世への橋渡し役。
国内においては帝国最高法院(Reichskammergericht)を整備し、中央集権と司法制度の強化を進めました。
そして外交では「戦争せずに領土を得る」スタイルを貫き、ハプスブルク家の婚姻戦略を徹底。
孫にはカール5世というビッグネームが生まれ、その“帝国ブランド”の基礎を築いた功績も大きいです。
神聖ローマ帝国にも、ローマ帝国の「五賢帝」に負けないくらい、国家運営・文化振興・外交手腕に秀でた名君たちがいたんです。
派手な征服よりも、秩序を保ち、帝国の仕組みを整え、後の時代に何かを残す――それが神聖ローマ帝国らしい“賢帝”の条件だったとも言えますね。