
神聖ローマ帝国とフランス王国(のちのフランス絶対王政)―― このふたつ、ヨーロッパ史において「隣同士の大国」だったわけですが、ただの隣国じゃなくて、“世界のカタチ”を決めるレベルでガチ対立してたのをご存じですか?
実はこの関係をちゃんと知ると、ナポレオンの登場も、EUの構造も、ドイツ統一もぐっと見え方が変わってきます。
この記事では、神聖ローマ帝国とフランスの関係性を軸に、どうやって近代ヨーロッパの秩序が出来てきたのかを見ていきます!
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まず意外と知られてないのが、そもそもこの2つの国、もともとは同じルーツを持っていたということ。
800年に“皇帝”となったカール大帝(シャルルマーニュ)が亡くなると、その王国は3人の孫たちで分割されます。
このとき、西側が西フランク王国(=のちのフランス)、東側が東フランク王国(=のちの神聖ローマ帝国)となったんです。
つまり、このふたつは「ローマ帝国の正統後継者」をどっちが名乗るかで張り合っていた関係。
「どっちが正当?どっちが本家?」という歴史と名誉の綱引きから、争いはずっと続いていきました。
中世のフランスと神聖ローマ帝国の関係は、一言で言うと国境が曖昧で、ケンカが絶えない状態でした。
ライン川を挟んだ地域――とくにアルザスやロレーヌは、両国が「うちの領土だ!」と主張してバチバチに対立。
この争いはその後、普仏戦争や第一次世界大戦にまでつながっていくという、長〜い火種になるんです。
フランス王はたびたびローマ教皇を支援して、教皇と対立する神聖ローマ皇帝を牽制する立場をとることも。
つまり、宗教をめぐる争いにも、政治的に深く関わってたんですね。
16〜17世紀になると、両者の体制の違いが決定的な対立軸になっていきます。
両国の体制の特徴は簡単にいえば以下の通りです。
そしてこの体制差が、戦争になるたびに「フランスのほうが有利」な原因にもなっていきました。
フランスはカトリック国でありながら、プロテスタント諸侯を支援して神聖ローマ帝国の分裂を促進。
ウェストファリア条約では、帝国の有名無実化にも深く関与しました。
フランスと神聖ローマ帝国の関係が決定的に終わるのは、18世紀末〜19世紀初頭。
ナポレオンは、神聖ローマ帝国に属していたドイツの諸侯たちをライン同盟として独立させ、1806年にはついに帝国そのものを解体。
このとき、神聖ローマ皇帝フランツ2世は「もうやってられん!」と皇帝位を放棄します。
神聖ローマ帝国が消えたあと、ドイツはプロイセン主導で統一を目指すようになります。
そして普仏戦争(1870年)や第一次世界大戦など、フランスとドイツの対立構造が近代ヨーロッパの主軸になっていくわけです。
神聖ローマ帝国とフランスの関係は、中世の王権争いから、近代国家誕生のカギまで、ヨーロッパ史の流れを決定づける“大きな軸”だったんです。
このふたつの関係を知ると、ナポレオン、ドイツ統一、さらにはEUまで、現代のヨーロッパのカタチがものすごく立体的に見えてきますよ!