

スペイン王家に“後継ぎがいない”──そんな単純な話から、ヨーロッパ中が総出で戦争に突入するなんて思いもしませんよね。でも実際、18世紀初頭にそれは起こりました。それがスペイン継承戦争です。
この戦争は、スペイン王位を誰が継ぐかという争いを発端に、神聖ローマ帝国・フランス・イギリス・オランダ・スペインなどの列強が入り乱れ、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争へと発展していきました。
今回は、このスペイン継承戦争を「なぜ起きたのか?」「どうなったのか?」「神聖ローマ帝国にとって何を意味したのか?」という視点から、わかりやすく解説していきます!
発端は、スペイン・ハプスブルク家の王様が子どもを残さずに亡くなったという、王室の継承問題でした。
1700年、スペイン王カルロス2世(1661–1700)が崩御。問題は、彼に「正統な後継ぎ」がいなかったこと。しかもカルロスの死後、遺言で“フランスの王子”を後継に指名したのです。
この王子、実はルイ14世の孫フィリップで、これが王位につけばフランスとスペインが事実上“連合王国”になってしまう。つまり、「フランスの勢力が強くなりすぎる!」と、ヨーロッパ中が警戒したんですね。
神聖ローマ皇帝レオポルト1世(1640–1705)も当然これに猛反発。彼自身、スペイン・ハプスブルク家と血縁があり、自分の息子カール大公を王位につけたいと考えていました。
こうして「フィリップか?カールか?」という王位争いが、国際戦争に発展していくのです。
戦争は1701年から1714年まで13年にわたって続きました。ヨーロッパ各地の戦場に加え、アメリカ大陸(いわゆる“アン女王戦争”)でも戦闘が展開される広範な戦争になったんです。
戦線は各地に広がり、とくにブレンハイムの戦い(1704年)では、イギリス軍のマールバラ公と神聖ローマ帝国のプリンツ・オイゲンがフランス軍に決定的な勝利を収めました。
しかし、1711年にハプスブルク側の皇帝候補だったカール大公が皇帝(カール6世)に即位してしまいます。すると今度は逆に「スペインと神聖ローマがくっつくのはまずい!」ということで、イギリスが和平に転じ、最終的に1713年のユトレヒト条約・1714年のラシュタット条約で戦争は終結。
フィリップはスペイン王として即位を認められた一方、スペインとフランスの合併は禁止されました。
神聖ローマ帝国にとって、この戦争は大国同士の“力の均衡”の時代に突入した象徴的な出来事でした。
神聖ローマ皇帝カール6世は、スペイン王にはなれなかったものの、代わりにかつてスペイン領だったネーデルラント・ミラノ・ナポリなどを獲得。これによりオーストリア・ハプスブルク家の版図は大幅に拡大しました。
一方、帝国内の諸侯たちはこの国際戦争に直接関わる機会が少なく、オーストリアによる帝国運営がより独占的になっていきます。これはのちのドイツ二重体制(オーストリアvsプロイセン)の土台を作ることにもなりました。
この戦争の結果、「どこか一国が大きくなりすぎると、他の国が連携してそれを抑える」という勢力均衡外交の考え方が定着。神聖ローマ帝国の皇帝も、「神聖さ」より現実的な外交バランスで動く時代に入っていくのです。