神聖ローマ帝国とオランダの関係─反乱か独立か…

神聖ローマ帝国とオランダの関係

神聖ローマ帝国とオランダの関係は複雑だった。オランダは帝国内の低地地方に位置し、16世紀後半の宗教改革とスペイン支配への反発から独立戦争(八十年戦争)を開始。結果的にオランダは独立を果たし、神聖ローマ帝国の影響圏から離れた。これにより帝国は経済的にも政治的にも重要な地域を失った。

反乱か独立か…神聖ローマ帝国とオランダの関係

チューリップ、風車、自由と独立の国──そんなイメージのあるオランダですが、もともとは神聖ローマ帝国の一部だったってご存知でしたか?のどかな景色とは裏腹に、16世紀のオランダは「反乱か独立か」の狭間で揺れ動く、熾烈な政治と宗教の戦場だったんです。今回は、そんな神聖ローマ帝国とオランダの複雑な関係を、時代を追って整理していきます!



もともとは帝国の領邦だった

オランダ(ネーデルラント)の地域は、神聖ローマ帝国の西端に位置し、複数の領邦や司教領、自由都市から構成されていました。


低地地方(ロウ・カントリー)としての扱い

13~15世紀にかけて、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの地域は「ネーデルラント諸州」と呼ばれ、神聖ローマ帝国の中でも重要な商業・金融拠点として機能していました。


ブルゴーニュ家の影響下へ

15世紀にはブルゴーニュ公国がネーデルラント諸州を手中に収め、半ば独立した存在に。この時点で、帝国の“建前上の支配”と、ブルゴーニュ家の“実質的支配”という二重構造ができあがっていました。


ハプスブルク家の継承で再び帝国の枠内へ

1477年、ブルゴーニュ女公マリーがハプスブルク家のマクシミリアン1世と結婚。この縁組によって、ネーデルラントは再びハプスブルク=神聖ローマ帝国の支配下に戻ります。


カール5世の時代に一体化が進んだ

16世紀前半、ネーデルラントは神聖ローマ皇帝カール5世(1500 - 1558)の直轄領となり、帝国のなかでも特別な地位を持つようになります。


カール5世はオランダ出身

実はカール5世自身、現在のベルギー・ヘントの生まれ。だからこそ、ネーデルラントを重視し、17州をひとまとめにした統治を行いました。


宗教改革への警戒

ルター派・カルヴァン派が広まるなか、カール5世はオランダでもプロテスタントの弾圧を進め、カトリック体制の維持を目指します。


「神聖ローマ帝国の中でも特別」な存在に

ネーデルラント17州は1548年のアウクスブルク帝国議会で、「帝国クライス(管区)」の枠外に置かれ、帝国法からも部分的に独立した状態に。形式上は帝国に属しつつも、かなり自由度の高い“別枠”とされていたのです。


反乱と独立の道を歩む

カール5世の退位後、事態は一気に動きます。息子フェリペ2世の統治下で、オランダはついに反乱から独立へと舵を切ることになります。


スペイン支配への反発

フェリペ2世はスペイン王としてネーデルラントを統治しましたが、増税・中央集権・宗教弾圧という“三重苦”が人々の怒りを買い、1568年にオランダ独立戦争(八十年戦争)が勃発します。


神聖ローマ帝国とスペインのねじれ

ここがポイントなのですが、フェリペ2世はハプスブルク家の出身とはいえ、スペイン系ハプスブルク。つまり、「オランダ=神聖ローマ帝国の領土」だったはずなのに、実際に支配していたのはスペインという奇妙な構造があったんです。


1648年、帝国が正式に独立を承認

三十年戦争を終わらせたヴェストファリア条約で、ついに神聖ローマ帝国はネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を正式に認めることになります。ここでようやく「反乱」から「独立」へと国際的に認知されたわけです。


「神聖ローマ帝国とオランダの関係」まとめ
  • もとは帝国の西端を構成する重要な領邦だった:商業・都市の発達で早くから独自性を持っていた。
  • ハプスブルク支配のもと、宗教弾圧が反乱を招いた:スペイン系ハプスブルクとのねじれ構造が生じた。
  • ヴェストファリア条約で独立が正式承認された:帝国からの“離脱”が国際的に認められた瞬間だった。