
神聖ローマ帝国とオランダの関係って、ちょっと不思議に思いませんか?
ヨーロッパ地図を見て「えっ、オランダってドイツと関係あるの?」って感じる人も多いはず。でも実は、オランダってもともと神聖ローマ帝国の領土の一部だったんです。
そして16世紀には、その帝国からの離脱と独立をめぐって、ヨーロッパ全体を揺るがすような大事件が起こります。今回はこの「神聖ローマ帝国とオランダの関係」について、歴史の流れを追いながら解説していきますね。
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最初にびっくりするかもしれませんが、今でこそ独立国家のオランダも、中世には神聖ローマ帝国の版図内にありました。
中世のオランダ地域は、初期にはフリースラント公国、後にネーデルラント(低地地方)と呼ばれる地域にまとまっていきました。
このネーデルラントは、正式には神聖ローマ帝国の北西の辺境地とされ、形式的には帝国の皇帝に忠誠を誓う立場にありました。
ただし、アルプスを越える皇帝の実権がこの地にまで及ぶことは少なく、事実上は自治的な領邦として動いていたんです。
15世紀になると、ネーデルラントはブルゴーニュ公国の支配下に入り、その後継者がハプスブルク家へとつながっていきます。
つまり、この地域は帝国の一部でありつつ、スペイン王家とも深く関係するようになったんですね。
この「スペインとのつながり」が、のちの大事件に発展していきます。
神聖ローマ帝国とオランダの関係が“決裂”へと向かう決定的なきっかけは、16世紀の宗教改革とスペインによる支配強化でした。
カール5世がスペイン国王として、そして神聖ローマ皇帝としてネーデルラントを支配していた時代は、まだ穏やかでした。
ところが、その息子であるフィリペ2世の時代になると、中央集権化とカトリックの強化を進める政策が取られるようになります。
これに反発したのが、宗教的にカルヴァン派へと傾きつつあったオランダ諸州だったんです。
1568年、ついにオランダの独立を目指した八十年戦争が勃発。
これは単なる宗教戦争ではなく、スペイン帝国からの政治的独立を求めた大規模な抗争でもありました。
ここで重要なのが、スペイン王が神聖ローマ帝国の皇帝ではなくなっても、オランダ側にとっては「帝国からの独立」と感じられていたという点です。
長く続いた戦争の果てに、オランダはようやく「独立国家」としての地位を獲得していきます。
1579年にオランダ北部の諸州が結成したユトレヒト同盟は、事実上の独立国家のスタート地点でした。
その後、1581年には「スペイン王への忠誠破棄宣言」が出され、正式にフィリペ2世を自分たちの君主とは認めないと表明します。
ただし、この時点ではまだ国際的な承認は得られていなかったんです。
1648年、三十年戦争の終結と同時に結ばれたヴェストファーレン条約において、ようやくオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、正式にヨーロッパ諸国に独立国として認められました。
このとき、神聖ローマ帝国も含めて国際社会がオランダを独立国として扱うことに合意したわけです。
オランダと神聖ローマ帝国の関係は、最初は「ゆるやかな従属関係」からスタートし、やがてスペインの影響を通じて対立が激化、そして最終的には“独立”へとつながっていった歴史でした。
もともと地理的にも文化的にも「自由な空気」が強かったこの地域は、帝国の一部でありながら、ずっと独自の道を模索していたんですね。
独立を勝ち取るまでに何十年もかかったけれど、その背景には長い葛藤と複雑なつながりがあったというわけです。