
ホーエンシュタウフェン朝(シュタウフェン朝)──その名を聞いただけで、中世ヨーロッパの壮麗な宮廷や、イタリアをめぐる教皇との激突、そしてフリードリヒ2世のような異彩を放つ皇帝を思い出す人も多いかもしれません。神聖ローマ帝国の中でも、この王朝ほど理想と現実のはざまで揺れた時代はありません。
この記事では、そんなシュタウフェン朝の始まりから終焉、そしてその統治スタイルの特徴まで、前半・後半に分けてわかりやすくかみ砕いて解説していきます。まずはその始まりと最期を追いましょう。
神聖ローマ皇帝の座をめぐって争われていた12世紀初頭、ザーリアー朝の血筋を引くひとりの人物が選ばれます──その名はコンラート3世。
ザーリアー朝最後の皇帝ハインリヒ5世が嗣子なく死んだあと、帝位は一時的に他家へ渡りますが、1138年、シュヴァーベン公であったコンラート3世がドイツ王に選ばれ、ここにホーエンシュタウフェン朝が誕生しました。彼はザーリアー家の縁戚でもあり、“血統の正当性”と“軍事的実力”を併せ持っていたんです。
コンラート3世は皇帝戴冠を果たせないまま死去しますが、彼の甥であるフリードリヒ1世(バルバロッサ)が1155年にローマで戴冠し、神聖ローマ皇帝に即位。彼こそが本格的なシュタウフェン帝国の幕を開けた人物となるんですね。
シュタウフェン朝はドイツ王国とイタリア王国(ロンバルディア)を同時に統治し、両地域を皇帝の下に置く「二重帝国」構想を掲げます。その政治構想とイタリア遠征をめぐるドラマは、まさにこの王朝の代名詞となっていきました。
そんな輝かしいシュタウフェン朝ですが、後半になると教皇との対立、内乱、継承問題と三重苦に苦しめられることになります。
バルバロッサの孫フリードリヒ2世は、神聖ローマ皇帝とシチリア王を兼ねる存在として、帝国の絶頂を築きました。が、その反面、教皇と敵対し、ローマからは「反キリスト」とまで呼ばれる存在に。彼の死後は、その息子たちによってかろうじて王朝は続くものの、秩序は次第に崩壊していきます。
最後の正統なシュタウフェン家当主は、フリードリヒ2世の孫コンラディン。しかし彼はイタリア遠征中、アンジュー家のシャルルに捕らえられ、ナポリで処刑されてしまいます(1268年)。これによって、シュタウフェン朝は完全に断絶。
その死は、当時のヨーロッパに衝撃を与え、まるで「帝国の夢の終わり」のように語られたといいます。
シュタウフェン朝の断絶は、単に一王家の終焉ではありませんでした。そのあとに続くのが、皇帝不在の混乱期──大空位時代。それについては、後半で詳しく解説していきます。
お待たせしました!それでは後半、シュタウフェン朝のイタリア政策、大空位時代との関係、そして前の王朝との比較に焦点を当てて解説していきます。
シュタウフェン朝の特徴といえば、なんといってもイタリアへの執着。この南下政策が、王朝の興隆と没落の両方に深く関わっています。
皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は、北イタリアの都市国家群を統制下に置こうとしますが、これに対抗したのがロンバルディア同盟。ミラノやヴェネツィアなどの都市が連携し、皇帝軍に反旗を翻しました。結果はレニャーノの戦い(1176年)で皇帝軍が敗北。
この敗北によって、「皇帝がイタリア全土を統治する」という夢は、早くもつまずきを見せます。
バルバロッサの孫フリードリヒ2世は、祖父とは別路線でイタリア政策に挑みます。彼はシチリア王国の王として即位していたため、南イタリアの支配を既に掌中に収めていたんですね。
ここにドイツとシチリアの二重帝国を築き、ローマを中間に挟んで“挟み撃ち”にするという構想を抱いていたのです。
でも、この戦略が最悪の敵を生むことに。ローマ教皇庁は「北からドイツ、南からシチリア、両側から皇帝に包囲される」ことを恐れ、フリードリヒ2世を猛敵視。ついには破門・十字軍召集・名指しでの退位宣言という宗教戦争レベルの対立に発展しました。
結果、皇帝の統治力は著しく低下し、イタリア政策も大きな破綻を迎えることになります。
シュタウフェン朝の断絶後、神聖ローマ帝国は「誰が皇帝になるのか決まらない」という未曾有の混乱に突入。それが大空位時代(Interregnum)です。
1268年のコンラディン処刑から1273年のルドルフ1世(ハプスブルク家)即位まで、帝国には正式な皇帝がいない“空白期間”が続きました。この間、諸侯は勝手に勢力を拡大し、帝国の統制力は地に落ちます。
この時代には、「皇帝とは何なのか?」という存在意義すら問われるようになり、帝国=理念上の存在という側面が強まっていきます。これは中世後期の神聖ローマ帝国における「名ばかり帝国」化の前触れでもありました。
つまり、シュタウフェン朝の断絶は単なる王朝交代ではなく、帝国そのものの土台を崩す事件だったんです。それほどこの王朝の存在感は絶大だったとも言えるでしょう。
ザーリアー朝やザクセン朝と比較すると、シュタウフェン朝は統治理念も行動力も、かなり違っていたことがわかります。
ザーリアー朝が内政安定と教会との均衡を重視したのに対し、シュタウフェン朝は皇帝自身が直接帝国を動かす姿勢を明確に打ち出します。特にフリードリヒ2世は、シチリアで独自の官僚制・法体系・大学制度まで整備した“皇帝型君主”でした。
彼はローマ法やアリストテレス哲学などを取り入れ、「知識と法によって統治する」国家を理想とします。これは中世の他の王朝とは一線を画す発想でした。要するに、帝国とは「剣と信仰」ではなく「理と制度」で運営できるというビジョンだったんですね。
でもこの理想は、諸侯や教会からの反発を呼び、足元をすくわれる結果に。ザーリアー朝の「調和型皇帝像」と比べると、あまりに孤高すぎたとも言えるかもしれません。