
古代ローマ帝国の後継を名乗っていた神聖ローマ帝国ですが、じつはその「名前」にはかなりの混乱がありました。時代によって異なる呼ばれ方をしていたり、「ドイツ民族の~」という表現が後から追加されたり…。その背景には、宗教的な権威づけや、政治的アイデンティティの模索といった、いかにも“中世ヨーロッパらしい”事情が隠されているんです。この記事では、そんな国号の変遷を通して、神聖ローマ帝国の内実に迫ってみましょう。
カール大帝の戴冠から「ローマ帝国の復活」を掲げた初期の呼び名に注目してみましょう。
800年、ローマ教皇から皇帝冠を授かったカール大帝(742頃 - 814)は、「ローマ人の皇帝(Imperator Romanorum)」を称号として用いました。この時点では、国家そのものの名称は明確に定められておらず、呼称としても単に「ローマ帝国(Imperium Romanum)」が使われていたと考えられます。
初期段階では「神聖」も「ドイツ民族の」といった言葉はまったく登場しておらず、むしろ「古代ローマの継承者」という幻想をそのまま名乗る形でした。つまり最初の段階では、名前からはまだ“中世のドイツ的国家”としての色は見えてこないわけです。
中世後期になると、名前に変化が加わり、ようやく「神聖ローマ帝国」に近い形が登場してきます。
11世紀頃から、帝国がキリスト教世界の秩序の中心を担う存在として強調され始め、「神聖」という形容詞が付きました。この頃の名称はSacrum Imperium(神聖帝国)で、教会の加護や神の意志に基づく支配を表現していたのです。
13世紀末にはSacrum Imperium Romanum(神聖ローマ帝国)という表現が確立され、これが後世で定着した呼び名の元となります。けれど当時の人々にとっては、儀礼的な文脈で使う“公式風の表現”であり、日常的に定着していたわけではありませんでした。
帝国の構成がドイツ人諸侯に偏ってくると、その現実を反映するように名称にも変化が加えられます。
15世紀以降、「ドイツ民族の(Deutscher Nation)」という語句が付け加えられたHeiliges Römisches Reich Deutscher Nationという名称が使われ始めます。これは、「ローマ」という理想の裏にある“ドイツ実態”を反映した言葉だったわけです。
この超長い名前が公式に固定されたわけではなく、ラテン語やドイツ語でさまざまなバリエーションが存在しました。行政文書と儀礼文書でも違いがあったり、君主の称号だけが一人歩きしたり──これぞまさに“統一なき帝国”の象徴的な側面といえるでしょう。