ザクセン朝時代の神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国の始まりとされるのが、962年のオットー1世による皇帝戴冠。
この瞬間をもって「ドイツを基盤としたローマ皇帝」が正式に復活し、いわゆる神聖ローマ帝国の誕生とみなされるわけです。
そしてこの時代を支えた王朝こそがザクセン朝
今回は、神聖ローマ帝国の「はじまりの時代」として重要なザクセン朝の特徴や功績を見ていきましょう!

 

 

ザクセン朝ってどんな王朝だったの?

ザクセン朝は、神聖ローマ帝国の初期を支えたドイツ系の王家です。
ドイツ王国(東フランク王国)をまとめ、そこからローマ皇帝の称号を獲得するまでに至った、帝国創建の立役者たちでした。

 

始祖は「ハインリヒ1世」

ザクセン朝の最初の王はハインリヒ1世(在位:919–936)
彼は東フランク王国(ドイツ)の王として諸侯たちの支持を得て即位し、バラバラになりかけていた国内をうまくまとめ上げ、後の皇帝国家の基盤を築いた人物です。
皇帝にはなっていませんが、“神聖ローマ帝国の父”と呼ばれることもあります。

 

真の創始者「オットー1世」

その息子オットー1世(在位:936–973)こそ、神聖ローマ帝国の実質的な創始者。
彼は内乱を鎮めて中央集権を固めただけでなく、東方への遠征や異民族への勝利によってキリスト教世界の守護者としての地位を確立します。
962年、ローマ教皇ヨハネス12世から皇帝の冠を受け、ここでついに神聖ローマ皇帝が誕生したのです。

 

ザクセン朝が神聖ローマ帝国に残したもの

ザクセン朝の支配はたった4代ですが、この時代に帝国の形皇帝の役割がだいぶ定まってきたんです。
ここからはザクセン朝が帝国にもたらした重要なポイントを見ていきましょう。

 

帝国=皇帝と教皇の協力体制(?)

オットー1世は皇帝になることで「ローマ皇帝の正統な後継者」を自称しましたが、同時に教皇の後ろ盾になることで、教会との“協力関係”も築こうとしました。
ただし、後になると皇帝と教皇の関係は対立の火種にもなっていくんですが、この時点ではまだ持ちつ持たれつの関係でした。

 

皇帝の権威と教会の結びつきを強化

オットー1世以降の皇帝は、聖職者を自ら任命し、自分の支配下に置くことで教会勢力を国家運営に組み込むという独自のスタイルを確立します。
これがのちの叙任権問題につながっていくんですが、ザクセン朝時代はむしろ教会との連携によって皇帝権が強化された時代だったんです。

 

ザクセン朝の終焉とその後

4代続いたザクセン朝は、最後の皇帝ハインリヒ2世(在位:1014–1024)をもって終わります。
この王朝の終わりは、次の王朝へのバトンとして、帝国の枠組みをしっかり残していきました。

 

ハインリヒ2世の宗教的皇帝像

最後のザクセン朝皇帝ハインリヒ2世は、熱心な信仰者であり、 教会や修道院への支援を惜しまなかったことで有名です。
後に聖人(カトリックの聖ハインリヒ)として列聖されたほどで、 皇帝としても、宗教的な威光と政治的安定の両方を追求した人物でした。

 

後継は「ザーリアー朝」へ

ザクセン朝の断絶後、選ばれたのがフランケン地方出身のコンラート2世
ここからザーリアー朝が始まり、さらに皇帝と教皇の関係は緊張と対立の時代へと突入していきます。

 

ザクセン朝は、神聖ローマ帝国の“始まりのかたち”を整えた重要な王朝でした。
オットー1世の皇帝即位、教会との協調、そして「皇帝とは何か」を定義しようとしたその努力が、 のちの帝国の歴史に大きな土台を作ったんです。
短命な王朝だったけれど、そのインパクトは千年帝国のスタートダッシュとしては申し分なかったんですよ!