
神聖ローマ帝国というと、ハプスブルク家やシュタウフェン朝を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、その“最初の王朝”となったのがこのザクセン朝(別名オットー朝)。実はこの王朝こそ、神聖ローマ皇帝という称号を初めて獲得し、帝国の原型をつくった存在なんです。
この記事では、そんなザクセン朝について「いつ・どこで・誰が始めたのか?」という基本から、後の王朝との違いまでをわかりやすくかみ砕いて解説します!
ザクセン朝が成立したのは、カロリング朝が断絶したのち、東フランク王国において新たな王家として台頭したときのこと。
場所は今のドイツ中部~東部にあたるザクセン地方。911年、カロリング朝のルートヴィヒ4世が亡くなったことで、王位が空位に。その後、ドイツ諸侯たちが自分たちの中から新王を選ぼうという流れが生まれます。
この時、ザクセン大公ハインリヒ1世(篤実王)が選出され、919年に即位。これがザクセン朝(オットー朝)の始まりです。
当初はまだ「ドイツ王(東フランク王)」にすぎなかったこの王朝ですが、次第にイタリアやローマとの関係を深め、ついに「皇帝」へと格上げされていきます。つまりザクセン朝は民族国家的な出発点から、普遍的な帝国モデルへと変貌していく過渡期にあった王朝なんですね。
ザクセン朝の創始者はハインリヒ1世ですが、「神聖ローマ皇帝」という称号を得たのは、その息子の代になってからでした。
オットー1世(912年 - 973年)こそが、神聖ローマ帝国という名の起点に立った人物。962年、ローマ教皇ヨハネス12世から皇帝戴冠を受け、名実ともに「ローマ帝国の後継者」となりました。
それゆえ、ザクセン朝は「オットー朝」とも呼ばれています。
当時のローマ教皇は、ローマ市内で敵対勢力に追われており、助けを求めてオットーに接近。これを好機と見たオットーは、軍を派遣して教皇庁を保護し、その見返りに皇帝冠を獲得──という「皇帝の称号=軍事的援助の対価」という構図が成り立っていたのです。
オットー1世はイタリア遠征を繰り返しながら、領土を広げつつ、教会と貴族を巧みに使って帝国の骨格を整えました。その治世下では、皇帝が教会人事を握る「帝国教会政策」も確立。神聖ローマ帝国のスタイルが、ここから形づくられていくんです。
では、後に黄金時代を築くシュタウフェン朝とは何が違うのでしょうか? この2つの王朝は、皇帝のあり方や政治の手法にけっこう違いがあるんです。
ザクセン朝のオットー1世や2世・3世は、皇帝が教会組織と連携しながら帝国を統治していました。教会の人材を官僚に取り立て、世俗貴族の力を抑えるという「帝国教会政策」が中心に据えられていたんです。
これはまだ世俗の力が未成熟だった初期帝国だからこそ可能だった手法でもあります。
一方のシュタウフェン朝(12世紀~13世紀)では、皇帝が直接イタリア統治を進めたり、都市と条約を結んだりと、より積極的に「王権の拡大」を志向していました。とりわけフリードリヒ2世は、皇帝としてローマ法やイスラム文化も活用しながら、超国家的な帝国を目指していくスタイルでした。
ザクセン朝の段階では、皇帝と教皇の関係はまだ“協力的”なものが多かったのですが、シュタウフェン朝では完全に“対立構造”に。教皇権と皇帝権が互いに正統性を争う中で、神聖ローマ帝国は分裂と停滞に向かっていくことになります。