
ウィーン――現代ではオーストリアの首都として知られていますが、実はこの街、神聖ローマ帝国の歴史の中でも超重要なポジションを占めていたんです。
特にハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになってからは、ウィーンは帝国の「心臓部」へと変貌していきました。
この記事では、神聖ローマ帝国時代におけるウィーンの成長と役割、そしてその歴史的背景を追っていきます!
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今でこそウィーンはヨーロッパの中心都市として知られていますが、実は最初は帝国の端っこだったんです。
ウィーンが本格的に登場してくるのは、10〜13世紀ごろ。
この時代、東の辺境を守る役割を持っていたのが東方辺境伯領(オストマルク)で、そこを治めていたのがバーベンベルク家でした。
彼らが本拠をウィーンに移し、少しずつ街を整備していったのがウィーン都市化のはじまりだったんです。
このころのウィーンは、ハンガリーや東欧からの外敵を防ぐ軍事的要衝であると同時に、ドナウ川交易やバイエルン方面との接点として経済の拠点にもなっていきます。
街としての骨格ができあがっていくのは、まさにこの時期なんですね。
13世紀末にハプスブルク家が神聖ローマ皇帝の座を手に入れると、ウィーンの立場は一気に帝国の中枢へと格上げされます。
1273年に選出されたルドルフ1世(ハプスブルク家)は、バーベンベルク家断絶後のオーストリアを手に入れ、ウィーンを政治の本拠としました。
この時点でウィーンは“事実上のハプスブルク政庁”となり、神聖ローマ皇帝の拠点として機能していくんです。
神聖ローマ帝国には明確な首都がなかったことは知られていますが、ハプスブルク家が帝位を事実上独占した14世紀以降、ウィーンは実務と政治の拠点としての役割を強めていきました。
特に外交・儀式・文化の場としてのウィーンは帝国の“顔”とも言える存在になっていきます。
ウィーンがただの政治拠点にとどまらず、文化と学問の中心としても発展したのは、ハプスブルク家の後押しが大きかったんです。
1365年、皇帝カール4世の甥にあたるルドルフ4世によってウィーン大学が創設されます。
これは神聖ローマ帝国圏でプラハ大学に次ぐ2番目の大学であり、ラテン語教育・神学・法学などを中心に知の拠点として機能しはじめました。
15〜16世紀にかけては、ルネサンスの影響も受けて、ウィーンでは音楽・建築・美術の発展が始まります。
宮廷文化と結びつきながら、やがてウィーンは「芸術の都」としての素地を整えていくことになるんです。
ウィーンはまた、神聖ローマ帝国とオスマン帝国の境界線という意味でも超重要な場所でした。
オスマン帝国はヨーロッパへの侵攻の足がかりとして、何度もウィーンを包囲しています。
特に1529年(第一次ウィーン包囲)と1683年(第二次ウィーン包囲)は有名で、ウィーンが落ちていたらヨーロッパのイスラーム化すら現実味を帯びていたかもしれないという、まさに歴史の分岐点でした。
この脅威を受けて、ウィーンは分厚い城壁や砲塔を備えた要塞都市として整備されていきます。
まさに政治・文化・軍事が融合した帝国の最前線都市だったわけですね。
1806年、神聖ローマ帝国が解体されると、ウィーンは新しく生まれたオーストリア帝国の正式な首都として再出発します。
帝国解体の大きな要因となったナポレオン戦争の終結後、1814〜1815年には「ウィーン会議」が開かれ、ヨーロッパの新秩序を定める舞台となりました。
この会議によって、ウィーンは国際政治の中心都市としての地位も確立していくのです。
ウィーンは「首都」ではなかったけれど、神聖ローマ帝国を理解するうえで絶対に外せない都市です。
軍事的要衝から文化・政治の拠点へ、そして帝国崩壊後もヨーロッパの中心として生き残っていく――
その変遷こそが帝国の変化そのものを映し出しているんですね。