
神聖ローマ帝国とカトリック教会は、いかにも“仲良し”なイメージがあるかもしれません。ところが──その象徴とも言えるローマの町が、神聖ローマ帝国の軍隊によってボロボロにされるという、とんでもない事件が起こったんです。
それがローマ劫掠(ごうりゃく)──1527年に起きた「聖都の悲劇」。
この記事では、なぜこの事件が起きたのか、どうして“皇帝の兵士”が教皇の本拠地を襲うことになったのか、そしてヨーロッパに与えた衝撃について深掘りしていきます。
きっかけは皇帝と教皇の対立でした。しかし「キリスト教世界の盟主」であるはずの皇帝と、「教会の最高権威」である教皇が、なぜ対立することになったのでしょうか?
当時の神聖ローマ皇帝カール5世(1500 - 1558)は、ドイツ・スペイン・ナポリ・ネーデルラントなどを支配するヨーロッパ最大級の覇者でした。一方でローマ教皇クレメンス7世は、そんな彼の“独走”を危険視。
特に問題になったのが、イタリアにおける支配権の主導権争い。ミラノやナポリといった要衝を巡って、フランス・神聖ローマ帝国・教皇が三つ巴状態に。
なんと教皇は、皇帝をけん制するために、仇敵であるフランス王フランソワ1世と手を組み、いわゆる「神聖同盟」を結成。これにキレたのがカール5世。彼は「教皇が皇帝に弓引くなど言語道断」と激怒し、イタリアでの軍事行動を加速させていきます。
ローマ劫掠は、計画的というより偶発的な暴走に近い形で発生します。
カール5世の軍には、多数のドイツ人傭兵(ランツクネヒト)が含まれていました。彼らの多くはプロテスタントで、ローマ教皇庁には強い敵意を持っていたんです。
さらに、皇帝が十分な給料を払えていなかったこともあり、「だったら略奪で取り返すしかない」という空気に。こうして軍隊は統制を失いながらローマへ向かうことに。
ローマ城壁は破られ、サン・ピエトロ大聖堂も略奪の対象に。修道院、教会、貴族の館──ありとあらゆるものが荒らされ、数千人が殺される大惨事に。ローマ教皇はサンタンジェロ城へ避難し、命からがら生き延びたと言われています。
まさに「聖都が地獄に変わった」瞬間でした。
この事件は、単なる軍事的事件にとどまらず、ヨーロッパ中の宗教と政治に深い爪痕を残しました。
「教皇=キリストの代理人」が自国の兵士に追われ、命から逃げた──この構図はあまりに象徴的で、教皇の権威に深刻な打撃を与えました。以後、教皇は皇帝に逆らうより“協調”を選ぶようになり、神聖ローマ帝国とローマ教皇庁の力関係は大きく変化します。
この劫掠によって、多くの芸術家や知識人がローマを去り、ルネサンス文化の中心がフィレンツェから分散。美術品の損失も大きく、「ルネサンスの終わりの合図」と見なされることもあります。
皮肉なことに、プロテスタント的傭兵たちによるこの行動が、結果的にカトリックの腐敗ぶり(=略奪を止められない教皇の無力さ)を印象づけ、ルター派を中心とする宗教改革の正当性を後押しした面もあるんです。