
ローマ劫掠(1527年)――その名のとおり、あのローマがめちゃくちゃに荒らされてしまうという事件なんですが、 驚くべきは、それをやらかしたのが神聖ローマ帝国の軍隊だってことなんです。
「神聖」ってついてるくせに、カトリックの総本山であるローマを略奪し尽くすって……どの口が神聖言うとんねんってツッコミたくなりますよね。
でもこの事件、単なる暴走じゃなくて、帝国と教皇の政治的ドロドロ関係の果てに起きたものなんです。
今回は、その「神聖じゃないにも程がある」ローマ劫掠事件の背景と顛末を、しっかり掘り下げていきます!
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いくら皇帝と教皇が仲悪いといっても、ローマを襲撃ってさすがにやりすぎじゃ…と思いますよね。
でも実は、神聖ローマ皇帝カール5世とローマ教皇クレメンス7世の関係は、その時すでに“修復不可能”レベルだったんです。
この事件の背景にあるのは、フランス王フランソワ1世と皇帝カール5世が争ったイタリア戦争。
教皇クレメンス7世は「フランスと組んでカール5世をけん制しよう」としたんですが、それがカール5世からすると「裏切りやん!」と感じる行動でした。
結果、帝国軍がイタリアで攻勢を強め、ローマに向かって進軍することになります。
実際にローマを襲ったのは、神聖ローマ帝国の傭兵軍。しかもその中にはルター派の過激派も多く含まれていました。
皇帝の命令を無視してまで略奪に走った彼らは、士気も最悪、統制も崩壊寸前。
リーダーだったカール3世(ロートリンゲン公)はローマ突入直前に戦死し、指揮系統が完全に崩壊します。
結果、暴走した兵士たちがローマを好き勝手に略奪・破壊・蹂躙する事態に発展しました。
この事件で起こったのは、戦闘というよりも完全な市街地テロでした。
しかも、宗教的拠点を襲うという点で、カトリック世界全体への衝撃もとてつもなかったんです。
サン・ピエトロ大聖堂も被害を受け、多くの聖職者が殺害されるか捕縛されました。
教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に立てこもり、最終的には降伏して幽閉。
もはや「皇帝の味方だった方がマシだったのでは…」という悲惨な結果に。
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの影響で花開いていたルネサンス文化も、この事件で大打撃を受けます。
彫像が破壊され、貴重な写本や絵画も略奪され、「ルネサンスの終焉」とも言われるほどの文化的損失が出ました。
「いや、皇帝なのにやりすぎじゃない?」って思いますよね。
でもカール5世自身はこの略奪を命じていなかったとも言われていて、その後の態度もかなり微妙なんです。
事件後、カール5世は「兵士が統制を失ったことは遺憾です」と形式的な謝罪をしました。
でもその一方で、教皇クレメンス7世を抑え込むことに成功し、教皇にハプスブルク家寄りの政策を取らせるなど、結果的に“政治的には勝利”してしまいます。
カトリックの総本山であるローマが、同じカトリック皇帝の軍に蹂躙されたという事実は、教皇の“道徳的権威”を根本から揺るがす結果になりました。
これはのちの宗教改革や、教会の制度改革にも大きな影響を与えることになります。
「神聖」ローマ帝国がカトリックの中心地ローマをぶっ壊す――
この事件はまさに矛盾の塊みたいなもので、宗教・政治・暴力・文化がごちゃ混ぜになった、神聖ローマ帝国史の暗黒ハイライトと言えるんです。
でも逆に言えば、この事件こそが「なぜ神聖ローマ帝国ってこんなにカオスだったのか?」を理解する最高の教材かもしれませんね。