
神聖ローマ皇帝とスペイン国王って、別々の国の話に思えますよね?でも歴史には一度だけ、このふたつの巨大な王冠を同時にかぶった人物がいるんです。
それがカール5世(1500 - 1558)。彼は神聖ローマ皇帝としても、スペイン国王カルロス1世としても知られていて、まさに“ヨーロッパ最強の王”と呼ぶにふさわしい存在でした。
ではなぜ彼が両方の国を治めることになったのか?その背景にはハプスブルク家のしたたかな婚姻戦略と、当時のヨーロッパを揺るがした大事件の数々が関係しているんです。この記事では、そんなスケールの大きなお話をわかりやすく紐解いていきますね。
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そもそも、別々の国の王位をどうやって1人が手に入れるの?って不思議になりますよね。
その秘密は、ヨーロッパ中に広がっていたハプスブルク家の血筋にありました。
カールの父親はフィリップ美男王(フランドルの統治者)、母親はスペイン女王フアナ。
つまり、カールは神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)とスペイン王国(カスティーリャ&アラゴン)、両方の王家の血を受け継いでいたんです。
この奇跡的な血筋のおかげで、若干16歳でスペイン国王カルロス1世として即位。さらに19歳で神聖ローマ皇帝カール5世にも選出されます。
彼が支配していた領土は本当に桁違い。スペインとドイツだけじゃなく、南イタリア、オランダ、オーストリア、ナポリ、アメリカ大陸の植民地まで含まれていました。
その広さから、彼の帝国は「太陽の沈まぬ帝国」なんて呼ばれていたんです。
同時にふたつの巨大国家を治めるって、聞こえはすごいですが、実際にはめちゃくちゃ大変なことだったんです。
神聖ローマ帝国は分権的な連邦体制、スペインは絶対王政に向かっていた中央集権。
つまり政治のやり方も、貴族たちの考え方もまったく違っていて、統治のバランスを取るのに相当苦労しました。
しかも、それぞれの地域ごとに言語も宗教の事情も異なるという、まさに“パッチワーク王国”状態。
神聖ローマ帝国内では、カール5世の時代にマルティン・ルターが登場し、宗教改革が勃発。
これに対し、熱心なカトリック信者だったカールはルター派の取り締まりに奔走します。
ただ、あまりにも領邦が多くて一枚岩になれなかったため、思うようにはいかず、彼の苦悩は深まっていくんですね。
フランスとはイタリアを巡ってイタリア戦争を、オスマン帝国とは地中海と東欧の防衛戦を、ドイツ国内ではプロテスタント諸侯との衝突……
文字どおり休むヒマがないくらい、戦争に明け暮れた人生でした。
こんなにたくさんの国を治めて、戦って、悩んで……じゃあ、最後はどうなったのか。実はこの人、ちょっと意外な終わり方をするんです。
もうこれ以上やってられない!と思ったのか、1556年、カール5世はすべての王位を自ら手放す決断をします。
神聖ローマ皇帝の地位は弟のフェルディナント1世に、スペイン王位は息子のフェリペ2世に譲りました。
退位後はスペインの山奥にある修道院に移り住み、世の中の喧騒から離れて静かな日々を送りました。
あれだけ広大な帝国を治めた人物が、最後は自然に囲まれて本を読んでいた――なんとも味わい深いエンディングですよね。
カール5世が退位したことで、ハプスブルク家の領土も分割され、以後、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分かれていきます。
これによって、神聖ローマ帝国とスペインが同じ王をいただく時代は終わりを迎えたんです。
神聖ローマ皇帝とスペイン国王を同時に務めたカール5世は、まさに“中世と近世の分かれ目”に立っていた人物でした。
ヨーロッパ中の王冠をその手に集めた男が、最後には山奥で静かな余生を選んだというのも、なんだか印象的ですよね。
権力の絶頂と、その重みを知ったからこそ、彼の人生にはどこか深い余韻が残っているのです。