

中世から近世にかけて1000年近く続いた神聖ローマ帝国──その長い歴史のなかで、じつは一貫して「人口が右肩上がりだった」というわけではありません。むしろこの帝国の人口は、戦争と疫病、そして社会の変動によって大きく揺れ動き続けてきました。
この記事では、神聖ローマ帝国における人口の推移を、各時代の出来事や社会背景とともにひもときながら、わかりやすくかみ砕いて解説します。
帝国が誕生したころ、人口の伸びはまだ控えめでした。
神聖ローマ帝国の起源とされるフランク王国時代(8~9世紀)では、人口の多くが農村に集中していました。当時は灌漑や農法も未発達で、耕地も限られていたため、人口は1000万人を下回っていたと推定されます。
それでも、温暖な気候と土地開発が進んだことで、徐々に人口は増加傾向に。
中世の盛期になると、森林伐採・湿地開拓・三圃制の普及などにより農地が拡大。これにともない、農民人口も急増し、帝国全体で2000万に迫る規模にまで膨れ上がります。
同時に、新しい都市も次々と誕生し、商業や手工業を支える町民層も増えていったのです。
順調に増えていた人口に、ある日突然“激減”の時代が訪れます。
1347年以降のペスト流行(黒死病)は、ヨーロッパ全土で人口の3分の1から半分を奪ったとされる大惨事。神聖ローマ帝国も例外ではなく、農村も都市も等しく壊滅的な打撃を受けました。
とくに都市部では死体の山と化し、教会や行政の機能も麻痺。人々は“神の罰”として恐れ、社会秩序が一時崩壊しました。
この大打撃のあと、労働力の不足から賃金の上昇や農奴制の緩和が進み、封建制度も徐々に揺らぎはじめます。人口は減ったけれど、それが逆に中世社会の“近代化”を促すきっかけにもなったんですね。
やっと人口が回復しはじめたかと思ったら、今度は戦争の時代です。
1618~1648年の三十年戦争は、神聖ローマ帝国の歴史のなかでもとびきり破壊的でした。宗教対立を発端とするこの戦争では、兵士だけでなく民間人も巻き込まれ、ドイツ中部の一部では人口が半減する地域もあったほど。
疫病や飢饉も重なり、帝国の人口はふたたび急減してしまいます。
とくに農村部では村そのものが消滅した例も多く、耕作地は荒れ、経済は長く停滞しました。再建には18世紀に入ってからも時間がかかり、社会の傷跡は深く残されたのです。
三十年戦争後の荒廃を乗り越え、帝国はやっと“人口増加モード”に復帰します。
マリア・テレジアやヨーゼフ2世の時代には、ワクチン接種・公衆衛生の整備などが進み、疫病の致死率も徐々に下がっていきます。さらに行政改革や土地調査も進められ、農村の管理が整っていきました。
これにより、18世紀末には帝国全体の人口が2800万〜3000万人に達するとも言われています。
人口の増加とともに、一部の過密地域からの移住・移民も進みます。ライン川流域やバイエルンからは、ハンガリーや新大陸に向けた移住が活発化し、神聖ローマ帝国の“人口の外への流動”という現象も見られるようになります。
人口は回復しきったかに見えたものの、やがて帝国そのものが歴史の表舞台から姿を消します。
19世紀初頭、ナポレオン戦争によって帝国は大混乱に陥り、1806年には神聖ローマ帝国が正式に消滅。多くの小国に分裂し、人口統計も個別国家ごとに扱われるようになっていきます。
この時代には近代的な戸籍制度も導入されはじめ、はじめて“正確な人口の記録”が残るようになりました。
神聖ローマ帝国が終わったあと、その人口の受け皿となったのがドイツ連邦、そしてドイツ帝国。これ以降、中央集権的な人口管理が可能となり、「帝国=地域の集まり」という旧来の体制とは決別していくことになります。