
神聖ローマ帝国というと、皇帝や諸侯、戦争や宗教改革といった“政治”の話ばかりに注目されがちですが、その裏では「人がどれだけいたのか」という人口の動きが、じつはめちゃくちゃ大きな意味を持っていました。
戦争や疫病、気候変動、そして農業の発展――人口の増減はいつも時代のうねりとセットなんです。
この記事では、神聖ローマ帝国の人口推移とそれにまつわる時代背景を、ざっくり通史で追っていきましょう!
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カロリング朝やザクセン朝の時代、帝国の人口はゆっくりと増加していました。
この頃はまだ都市も小さく、社会の中心は農村。
人々の多くが自給自足に近い暮らしをしていた時代です。
三圃制や鉄製農具の導入によって、農業の生産性が少しずつ上がり、同時に森林や湿地を開墾して新しい農地が広がっていきます。
特にライン川流域やドナウ河畔、南ドイツの丘陵地などで、農村の数が増えていきました。
11世紀頃からは東方植民(Ostsiedlung)が始まり、ドイツ人農民や騎士たちがボヘミア、スロヴァキア、ポーランド方面へ進出。
新しい土地で暮らしを始め、人口の“地理的拡張”も進みます。
13世紀には農業と都市の発展で人口はピークに達しますが、14世紀に入るとペスト(黒死病)の大流行が発生し、人口は一気に減少します。
13世紀末には、神聖ローマ帝国の人口は約1,200万〜1,400万人と見積もられています。
しかし1347年以降のペストにより、全体の3〜4割が死亡したと言われています。
これにより農村は空き地だらけ、都市の経済も壊滅的な打撃を受けました。
人口が激減したことで、労働力が不足し、残された農民の待遇が改善されたり、逆に新たな農奴化が進んだりと、地域ごとに“逆方向”の変化が起こるのもこの時代の特徴です。
15世紀末から16世紀にかけて、人口は徐々に回復し始めます。
でもその矢先に、またも大規模な人口減少を招く出来事が待っていたんです。
16世紀の半ばには人口が約1,600万〜1,800万人まで回復したと推定されます。
この頃には自由農民の増加や農業商品化が進み、ワイン・穀物・特産品の生産が活発化。
都市も再び活気を取り戻し、宗教改革前後の知的運動が生まれる土壌ができていました。
しかし1618年から始まる三十年戦争は、帝国の人口に深刻な打撃を与えます。
戦闘・略奪・飢饉・疫病が同時に襲い、地域によっては人口が半減したとも言われています。
全体では約2〜3割の減少(1,800万 → 約1,200〜1,400万)という見方が主流です。
三十年戦争が終結したあとは、しばらく人口も経済も回復に時間がかかりましたが、18世紀になるとようやく持続的な増加傾向に入っていきます。
プロイセンやオーストリアなどでは、啓蒙専制君主による農業奨励策・移住政策が進められ、帝国全体でも土地の再開発や食料供給体制の整備が進んでいきました。
この結果、1800年ごろには人口が2,300〜2,500万人規模に回復したと考えられています。
18世紀には、天然痘ワクチンの導入や、都市での衛生意識の向上により、乳幼児死亡率や疫病による致死率が徐々に減少。
このような“地味だけど重要な要因”も、人口増に貢献しています。
時期 | 推定人口 | 主な出来事 |
---|---|---|
11世紀頃 | 約800万 | 農業技術の発展、東方植民の開始 |
13世紀末 | 約1,200〜1,400万 | 中世の人口ピーク |
14世紀後半 | 約800〜900万 | ペストによる大減少 |
16世紀中頃 | 約1,600〜1,800万 | 農業回復と都市成長 |
1648年(三十年戦争後) | 約1,200〜1,400万 | 戦争・飢饉・疫病の複合被害 |
1800年頃 | 約2,300〜2,500万 | 啓蒙改革と医療発展による増加 |
神聖ローマ帝国の人口の歴史は、戦争・疫病・農業・気候――まさに「人の生き死に」が時代と直結していた証拠です。
人口の増減を見ることで、帝国の“表”だけでなく庶民の暮らしや社会の地盤がどれだけ揺れ動いていたのかが見えてくるんですよ。