神聖ローマ皇帝軍の歴史|帝国軍との違いとは?

神聖ローマ皇帝軍(Kaiserliche Armee)—その名のとおり、皇帝直属の軍隊として知られていますが、同じ神聖ローマ帝国には帝国軍(Reichsarmee)という別の軍隊もあったので、「えっ、軍がふたつ?」と混乱する人も多いんです。
この“ふたつの軍隊”は、役割も運用法もまったく違っていて、それぞれが神聖ローマ帝国のバラバラな実情を映し出しています。
この記事では、皇帝軍とは何か、いつどうやってできて、どんな戦争に関わったのか、そして帝国軍との違いはどこにあったのかを、わかりやすく整理していきます!

 

 

皇帝軍と帝国軍はどう違ったの?

まずはここを押さえておきましょう。神聖ローマ帝国には2つの「軍隊らしきもの」がありましたが、その成り立ちも指揮系統も、まるっきり違っていたんです。

 

皇帝軍=ハプスブルク家の私兵からスタート

皇帝軍(Kaiserliche Armee)は、皇帝個人――特にハプスブルク家の領地と財政に基づいて構成された軍隊です。
つまり、「皇帝の軍」とはいえ帝国全体の合意ではなく、オーストリアの軍が実態だったんですね。
中世末期から次第に制度化されていき、ハプスブルク家の対外戦争や内乱鎮圧で主力となります。

 

帝国軍=帝国議会が招集した連合軍

帝国軍(Reichsarmee)のほうは、帝国議会で決議されて全領邦が兵を出し合って編成する軍です。
常備軍ではなく、戦争や緊急事態のたびに「兵を集めて一時的に組織される」形でした。皇帝の意向で勝手に動かせる軍ではなく、バラバラな領邦の合議制軍隊だったのが特徴です。

 

皇帝軍の誕生と制度化

皇帝軍は、最初から“制度としての軍”だったわけではなく、ハプスブルク家の力の強まりとともに徐々に“実質的な帝国軍”として振る舞うようになっていったんです。

 

マクシミリアン1世の改革

16世紀初頭、ハプスブルク家のマクシミリアン1世は、帝国の安定化と拡張のために、自らの家系の軍を整備し、帝国全体の戦争にも対応できるように動かします。
この時期から、皇帝の軍が帝国の軍として“代役”を果たす流れができはじめました。

 

三十年戦争で「真の主力」へ

1618年からの三十年戦争では、皇帝軍は神聖ローマ帝国側の主戦力となり、傭兵指揮官ヴァレンシュタインらによって組織された大軍が戦線を支えました。
帝国軍(Reichsarmee)はこの戦争にはほとんど参加せず、「神聖ローマ帝国が戦っていた」のではなく「皇帝個人が戦っていた」という構図がここでハッキリと表れます。

 

皇帝軍の軍事力と構成

では実際、皇帝軍ってどんな構成だったのか?どんな兵士がいて、どうやって集められていたのか?この軍の“実働”の部分を見ていきましょう。

 

傭兵が中心の職業軍

皇帝軍は常備軍的な性格を持っていましたが、その多くは傭兵として雇われた兵士たちでした。
ドイツ語圏だけでなく、ハンガリー人・チェコ人・イタリア人など多国籍な構成も特徴で、皇帝の財政力とハプスブルク家の領地ネットワークがその動員を可能にしていました。

 

指揮系統と戦術

三十年戦争ではヴァレンシュタインの軍制改革によって、補給・徴発・軍政が整備され、軍そのものが“移動する自治国家”のように機能するまでに発展。
戦術面ではテルシオ式編成(密集陣形)から、火器を多用する機動的な戦法への移行が見られました。

 

皇帝軍の役割とその終焉

皇帝軍は、神聖ローマ帝国の実体が薄れていく中でも、最後まで「帝国の顔」として戦い続けた軍でもありました。

 

対外戦争の主役に

17~18世紀には、トルコやフランス、プロイセンとの戦争でほぼ常に皇帝軍が主力となります。
帝国議会の帝国軍はもはや形骸化していたため、“神聖ローマ帝国=ハプスブルクの軍事力”という状態が定着していきました。

 

ナポレオン戦争とともに終焉

1806年、ナポレオンのライン同盟により神聖ローマ帝国は正式に解体
皇帝軍はオーストリア帝国軍(Kaiserlich-königliche Armee)として引き継がれ、“神聖ローマ皇帝の軍隊”という形はここで終わりを迎えます。

 

神聖ローマ皇帝軍は、「帝国」の名のもとに動きながら、実際は皇帝(ハプスブルク家)の“私的”な軍隊という矛盾をはらんでいました。
それでもこの軍があったからこそ、帝国の政治的権威が長く保たれたのも事実。
帝国軍と皇帝軍――ふたつの軍を比べてみると、神聖ローマ帝国がいかに“名目と実体がズレた存在”だったかが、よりリアルに見えてきますね。