神聖ローマ帝国とドイツの違いと関係とは?

神聖ローマ帝国ドイツ。このふたつ、歴史の授業なんかではほぼセットで出てくるけど、「これって同じなの?別なの?」って思ったことありませんか?
たしかに神聖ローマ帝国の中心はドイツ地域だったし、今のドイツの前身って言われることもある。でも、だからといってイコールではないんです。
この記事では、神聖ローマ帝国とドイツがどう違っていて、どうつながっているのかを、ざっくり丁寧にひもといていきます!

 

 

神聖ローマ帝国って“ドイツ”だったの?

最初に出てくる疑問はこれですよね。地図を見ると、たしかに神聖ローマ帝国の中心はドイツに見えるし、皇帝とか貴族の名前もドイツっぽい。でもそれだけじゃ説明できない部分があるんです。

 

“ドイツっぽいけど、ドイツじゃない”

神聖ローマ帝国は「ドイツ語圏」を中心とした巨大な連合体でした。
たしかに現在のドイツ、オーストリア、スイス東部、チェコあたりまではほぼ帝国の中に含まれていました。
でも当時の感覚でいうと、ひとつの「ドイツ国」があるわけじゃなくて、無数の小国や都市国家がゆる〜くまとまっているだけだったんですね。
つまり、文化的・言語的にはドイツ的でも、政治的にはバラバラ。これが神聖ローマ帝国の特徴なんです。

 

「ドイツ人」という意識もまだなかった

今でこそ「ドイツ人」ってひとまとめにされますけど、当時は「俺はザクセンの人間」「うちはバイエルンだよ」みたいな、地方アイデンティティの方が強かったんです。
だから帝国の中でも、自分が「ドイツ人だ」って意識していた人は意外と少なかったかもしれません。

 

どうしてドイツと神聖ローマ帝国が結びついたの?

じゃあなぜ、今になると「神聖ローマ帝国=ドイツの前身」みたいに言われるんでしょうか?それにはいくつかの歴史的な流れが関係しています。

 

帝国の領域がドイツに近かった

神聖ローマ帝国の中核をなしていたのが、いわゆるドイツ語圏の領邦国家たちだった、という事実はやっぱり大きいです。
皇帝もだいたいドイツ貴族から選ばれていたし、帝国の議会もドイツ人たちで構成されていた。
なので、帝国の活動の大部分はドイツ地域で行われていたと言っても過言ではありません。

 

帝国解体後に「ドイツ」の話が動き出す

1806年に神聖ローマ帝国がナポレオンによって解体されたあと、ドイツ語圏の人たちの間では「これからは自分たちで国を作らなきゃ」って機運が高まっていきます。
ここからドイツ統一運動が始まっていき、「帝国」はなくなっても、その“のこりかす”の中から新しい「ドイツ国家」が誕生するわけです。
だから、「神聖ローマ帝国がドイツを生んだ」と言われることがあるんですね。

 

どこが違って、どこがつながってるの?

じゃあ、結局ふたつの違いと関係性ってどう整理すればいいんでしょう?それぞれの特徴を見てみましょう。

 

神聖ローマ帝国は「連合体」、ドイツは「国家」

神聖ローマ帝国は“たくさんの国のゆるやかな集合体”。中央集権でもなければ、ひとつの政府があるわけでもありませんでした。
一方でドイツは、近代的な「ひとつの国」を目指して生まれた国家
つまり、統治のスタイルも目的もまったく違うんです。

 

つながっているのは「地域」と「文化」

両者をつなげる一番のポイントは、やっぱり地理と文化です。
神聖ローマ帝国が存在していた場所に、のちにドイツができる。
そして、帝国内で使われていたドイツ語や習慣、法制度の一部が、ドイツ国家にも引き継がれていく。
だから別物ではあるけれど、まったく無関係というわけでもないんです。

 

神聖ローマ帝国とドイツは、「似てるけど違う」「でもちょっとつながってる」っていう、ややこしいけどおもしろい関係なんです。
帝国は“ドイツが生まれるための土台”であって、ドイツは“帝国から生まれた新しいカタチ”とも言えます。
ふたつを比べてみることで、ヨーロッパの歴史の流れがぐっと見えやすくなってきますよ!