
神聖ローマ帝国って、千年近くも続いた長寿帝国なのに、「皇帝って何してたの?」「国としてどう運営されてたの?」って話になると、意外とパッと答えられない人が多いんです。
というのも、この帝国の政治体制はどんどん変化していったうえに、もともと他の国と比べてめちゃくちゃ特殊だったから。
この記事では、神聖ローマ帝国がどんなふうに政治体制を進化(あるいは迷走)させていったのかを、時代ごとに見ていきます!
|
|
まずスタート地点は、800年のカール大帝戴冠です。
この時代はまだ、神聖ローマ帝国というよりは「ローマ皇帝の再来」という意識が強くて、 政治体制もほぼカール個人のカリスマと軍事力によって支えられていました。
皇帝は教皇から冠をもらうことで“神に選ばれた支配者”としての正統性を得ます。
この宗教と政治の二重構造が、以後の神聖ローマ帝国政治に深く根を下ろしていくことになります。
制度としての中央政府はほぼ存在せず、各地は国王の家族や貴族に任せてゆるく管理されていました。
まだ「帝国」というほどの仕組みではなかったんですね。
10〜11世紀になると、オットー1世やハインリヒ3世らのもとで「本物の神聖ローマ帝国」がスタートします。
オットー1世は教皇を支配下に置くほどの影響力を持ち、皇帝が宗教界にも手を突っ込める構造ができていました。
これにより、“聖俗両権を統合した”中世型の皇帝支配が成立します。
でも、11世紀に入って教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争が激化すると、 「皇帝が司教を任命するのっておかしくない?」という話になり、皇帝の宗教支配は崩れていきます。
12〜13世紀のホーエンシュタウフェン朝では、皇帝が再び中央集権を目指して突っ走る時代になります。
特にフリードリヒ2世は、イタリアとドイツ両方を支配下に置いて中央集権国家を目指します。
でもこれがあまりに強権的すぎて、諸侯や教皇との全面衝突を招き、結果的に帝国全体の分裂を加速させてしまうんです。
フリードリヒ2世の死後、約20年ものあいだ皇帝がいない「大空位時代」に突入。
この期間に、帝国内では諸侯の独立性が一気に強まることになります。
ルクセンブルク朝、ハプスブルク朝の時代になると、 神聖ローマ皇帝は絶対的な支配者から、むしろ“みんなのまとめ役”へと変化していきます。
この勅書で、皇帝は世襲ではなく選挙で決めるというルールが正式化され、 同時に選帝侯たちの自治権も保障されました。つまり皇帝の力はさらに制限されることになります。
15〜16世紀にかけて、帝国全体でルールを話し合う帝国議会(ライヒスターク)や、 法的トラブルを裁く帝国最高法院(Reichskammergericht)が整備され、 皇帝の一存では動かない合議制国家へと変化していきます。
三十年戦争とウェストファリア条約(1648年)によって、帝国の政治体制はほぼ完全な“連邦体”に。
各領邦国家は、宗教、外交、軍事をほぼ自由に決定できるようになり、 皇帝は形式的な存在として残るだけになります。
この頃の神聖ローマ帝国は、もうひとつの国家というよりは、ドイツ世界の連合体に近い形になっていました。
長く続いた「連合帝国」は、ナポレオンの侵攻とライン同盟の成立によってついに崩壊。
皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国は正式に消滅します。
神聖ローマ帝国の政治体制は、絶対王政にも民主国家にもなりきれなかった“中間形態”でした。
そのかわり、宗教、法、諸侯の利害、都市の独立――いろんなバランスをとりながら何とか続いてきた。
それこそが、神聖ローマ帝国という「決めきれない帝国」の、最大の特徴でもあったんです。