
神聖ローマ帝国と聞くと、「ローマ」という名前が入っているだけに、なんだか古代ローマの直系みたいに感じてしまいませんか? そしてもう一つ、「第一帝国」という呼ばれ方も、なんだか順番を意識させられる不思議な名前。実はこの「第一帝国」という表現、あとからできた“後付け”の分類でありながら、ドイツ史を通して国家の「継承」や「正統性」を示す重要なキーワードでもあるんです。
この記事では、なぜ神聖ローマ帝国が「第一帝国」と呼ばれたのか、その背景にある歴史認識や思想、そして後世に与えた影響について、わかりやすくかみ砕いて解説していきます。
そもそもこの言い回し、いつ・誰が言い始めたのかがポイントです。
「第一帝国」という呼称は、ナチス政権下の歴史認識によって定着しました。ヒトラー政権は自らを「第三帝国(Drittes Reich)」と位置づけることで、「過去からの正統な継承者」であると同時に、「それを超える存在」であることをアピールしようとしたんです。
この三分法においては、962年のオットー1世の戴冠をもって成立した神聖ローマ帝国が「第一帝国」とされ、1871年にプロイセン主導で成立したドイツ帝国が「第二帝国」とされます。そして1933年以降のナチス政権が「第三帝国」──という区分ですね。
では、第一帝国とされる神聖ローマ帝国には、どんな国家理念が込められていたのでしょうか。
この帝国の特徴は、いわゆる「ドイツ国民の国家」ではなかった点です。むしろキリスト教世界の秩序を体現する“普遍帝国”として、神の代理人たる皇帝がローマ教皇と並び立つ存在とされていました。
とはいえ、帝国の中心は現在のドイツ・オーストリア・チェコ周辺にあり、ドイツ語圏の国々にとっては文化・政治の原点となったのも事実。のちにドイツ国家が成立する際、この伝統を引き継ぐ形で「第一帝国」と見なされたわけです。
この呼び方がなぜ重要なのか──それは、近代以降の「国家像」と深く結びついています。
プロイセン王国が主導したドイツ帝国(第二帝国)は、バラバラだったドイツ諸邦を統一する上で、神聖ローマ帝国の存在を“先代”と見なすことで、自らの歴史的正統性を演出したのです。
ナチスもまた、「第一帝国→第二帝国→第三帝国」という流れを意識的に作り上げることで、自分たちの政権を断絶ではなく継承の物語の中に置こうとしたんです。歴史を「連続する帝国の物語」として語ることで、国民に安心感や誇りをもたらそうとしたわけですね。
でもこの呼ばれ方、必ずしも神聖ローマ帝国の実態にぴったり合っていたとは言えません。
神聖ローマ帝国は一枚岩の国家ではなく、実際は何百もの領邦国家が緩やかに連合した“帝国的構造”でした。「帝国」といっても、皇帝の力が常に絶対だったわけじゃないんです。
「第一帝国」というラベルは、後世の都合で勝手に貼られた名前でもあります。ある意味、神聖ローマ帝国は「第一帝国」扱いされることで、かえって“単純な中央集権国家”のように誤解されがちになったとも言えます。