
神聖ローマ帝国って、別名「第一帝国(Das Erste Reich)」なんて呼ばれたりもするんですが、これって当時の人たちがそう言ってたわけじゃないんです。
実はこの呼び方、もっと後の時代――とくに19世紀のドイツ帝国の頃になってから生まれたものなんですね。
じゃあなんで「第一」なんて名乗られるようになったのか? その背景には、ドイツ人たちが自分たちの歴史のルーツや正当性を再確認しようとした流れがあったんです。今回はそのあたり、ちょっと丁寧に見ていきましょう。
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この呼び名は、神聖ローマ帝国が現役だった頃の呼称じゃありません。もっと後の時代、ある目的のもとで作られた“後付け”の言葉なんです。
「第一帝国」という呼び方が定着したのは、1871年にドイツ帝国(いわゆる「ビスマルク帝国」)が成立してからのこと。
このときの人々は、自分たちの国を「第二帝国」と呼びました。
じゃあその前は?ということで、自然と「神聖ローマ帝国=第一帝国」という呼び名がセットで出てきたんですね。
つまりこの言葉は、ドイツ国家の“正統な系譜”を作るための歴史のフレームとして使われたわけです。
ドイツ帝国を統一したビスマルクは、単に国をまとめるだけじゃなく、「自分たちには千年の伝統があるんだぞ」という歴史的な重みを持たせたかったんです。
そのために過去の神聖ローマ帝国を“第一”と位置づけ、自らの国家をその後継者のように演出したんですね。
政治的なレトリックとしての「第一帝国」だったとも言えるんです。
では、数ある歴史国家の中で、なぜ神聖ローマ帝国が「第一帝国」に選ばれたのか。そこにはちゃんと理由があります。
神聖ローマ帝国って、名前に「ローマ」とついてはいるけど、実際はドイツ語圏を中心とした国家だったんです。
皇帝のほとんどはドイツ系貴族(とくにハプスブルク家)で、帝国議会もドイツ諸侯たちで構成されていました。
つまり、実態としては「ドイツの帝国」だったから、“ドイツ第一の帝国”として扱われたということなんですね。
神聖ローマ帝国は800年のカール大帝から、1806年のフランツ2世まで、およそ千年以上も続いた長命な政体です。
その間、宗教改革も三十年戦争も経験しつつ、それでも「帝国」という枠組みを保ち続けたわけですから、後世の人々にとっては「由緒ある帝国」=第一帝国という見方になるのも自然な流れだったんです。
神聖ローマ帝国は、そもそも「古代ローマの正統な後継者」を名乗ってスタートしました。
ローマ教皇から皇帝の冠を授かることで、「神に選ばれた統治者」としての宗教的な正当性も獲得していたわけです。
だから「第一帝国」という呼び名には、「ただ古いだけじゃない、ローマの伝統を継ぐ正統な存在だったんだよ」というプライドもこめられていたんですね。
「第一帝国」と呼ぶ以上、それに続く「第二」「第三」もあるわけで……じゃあそれらとの関係はどうなっていたんでしょう?
1871年に成立したドイツ帝国は、プロイセン王を皇帝とする新しい統一国家。
このとき、あえて「神聖ローマ帝国の後継」として自分たちを位置づけたことで、“第二帝国”の名が定着しました。
ただし、神聖ローマ帝国のような諸侯の寄せ集めではなく、プロイセン中心の中央集権型の帝国だったのがポイントです。
そして1930年代、ナチス政権下でヒトラーが「第三帝国(Das Dritte Reich)」という言葉を政治的に利用します。
これは神聖ローマ帝国→ドイツ帝国に続く“歴史の三番目の帝国”という意味でしたが、実態は全く異なる独裁国家。
結果的にこの用語は、戦後になってから否定的なニュアンスで使われるようになりました。
「第一帝国」としての神聖ローマ帝国は、後のドイツ国家が自分たちのルーツを説明するために使った、いわば“歴史の肩書き”みたいなものです。
それでも、千年の歴史やローマの伝統を受け継いできた重みは本物。だからこそ、この名前には“誇り”と“正統性”がこめられていたんですね。
こうしてみると、歴史って「あとから名付けられること」で、また新たな意味が生まれるものなのです。