
神聖ローマ帝国って、ひとりの皇帝がバシッと全体を支配していたわけじゃなくて、実はめちゃくちゃたくさんの“ほぼ王様”みたいな貴族たちがうじゃうじゃいたんです。
その中には、選帝侯として皇帝選びに関わる家もいれば、自前で軍隊も貨幣も持ってた“実質独立国”みたいな家も。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国を支え、時には皇帝と争い、時には皇帝になったりもした有力貴族たちをまとめてご紹介します!
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まず押さえておきたいのが選帝侯(せんていこう)。
これは「皇帝を選ぶ権利を持つ特別な諸侯」で、7〜9家に限られていました。
彼らは帝国の“VIP”であり、皇帝にとっても味方につけるべき超重要人物たちだったんです。
この3つは宗教系の選帝侯で、それぞれマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教が担当。
教会勢力でありながら、政治や外交にもガンガン関わっていました。
特にマインツ大司教は“選帝侯のまとめ役”として帝国の副王的存在でした。
バイエルンのヴィッテルスバッハ家(プファルツ選帝侯)、ブランデンブルクのホーエンツォレルン家、ザクセンのヴェッティン家、そしてボヘミア王を務めるルクセンブルク家(のちハプスブルク家)などがここに含まれます。
この中から皇帝が生まれることもしばしばで、皇帝候補者たちの温床でもありました。
選帝侯以外でも、神聖ローマ帝国には皇帝に匹敵する影響力を持つ貴族家がいました。
ここではその中でも特に覚えておきたい家をいくつかピックアップします。
言わずと知れた神聖ローマ皇帝を独占した一族。
15世紀中ごろから帝国の皇帝位を事実上“世襲”し、オーストリアを拠点に、スペイン、ハンガリー、ネーデルラントなど世界規模で勢力拡大しました。
中世帝国の黄金時代を築いたバルバロッサ(赤ひげ)やフリードリヒ2世の家系。
イタリア政策に力を入れ、教皇とバチバチにやり合いながら“普遍的皇帝像”を目指しました。
バイエルンを拠点に長く影響力を保ち、ルートヴィヒ4世を皇帝に出したこともある家系。
のちにプファルツ選帝侯領を持つなど、複数拠点で帝国に食い込んだ貴族家でした。
最初はブランデンブルク選帝侯を務め、のちにプロイセン王国→ドイツ帝国の皇帝家となる超出世一族。
神聖ローマ帝国の時代から、じわじわと実力をつけていった“帝国の次世代スター”的存在です。
帝国はめちゃくちゃ広かったので、地方にもそれぞれの“王様っぽい”大貴族がいました。彼らもまた帝国を構成する重要なピースだったんです。
オーストリアの一部を支配していた宗教国家。 音楽で有名なザルツブルクですが、かつては武力も財力も持った司教領でした。
ドイツ南西部では、このあたりの家系が地域の秩序を保つ中心になっていました。 とくにヴュルテンベルク家はのちに王国化されていくなど、時代を超えて影響を残します。
貴族じゃないけど忘れちゃいけないのが帝国都市。これらの都市も皇帝直属の存在で、半独立国家的に動いていたんです。
神聖ローマ帝国のすごいところは、「皇帝=すべて」じゃなかったってところなんです。
バラバラでありながら、それでもひとつの“帝国”として成立していたのは、こうした有力貴族たちの絶妙なバランス感覚のおかげ。
まるで政治の寄せ鍋みたいなこの仕組みが、帝国を千年も生き残らせた秘密なんですよ。