
「神聖ローマ“皇帝”」と聞くと、まるで絶対的な支配者のように思えるかもしれませんが、実際の神聖ローマ帝国はそんなに単純じゃありませんでした。というのも、この帝国には皇帝に匹敵するほどの力を持った“有力貴族”たちがいたんです。
この記事では、皇帝と時に対立し、時に支えながら帝国の命運を握った神聖ローマ帝国の有力貴族たちを、その特徴や活躍とともに紹介していきます。
まず押さえておきたいのが、皇帝を選ぶ特権を持った選帝侯(クーアフュルスト)という存在。彼らは単なる貴族ではなく、帝国政治の中核を担うプレイヤーでした。
1356年の金印勅書で定められた7人の選帝侯には、3人の大司教(マインツ、ケルン、トリーア)と4人の世俗諸侯(ボヘミア王、プファルツ伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯)が含まれていました。彼らの支持なくして皇帝は即位できず、事実上の“皇帝メーカー”だったわけです。
選帝侯たちは、領地内で法律の制定・徴税・軍の動員などを自由に行えるほどの自治権を持っていました。そのため、場合によっては皇帝の命令を拒否することも可能。帝国の中に“ほぼ独立国家”が存在していた状態だったのです。
選帝侯以外にも、帝国には広大な領土と軍事力を誇る“大領邦”の支配者たちがいました。
南ドイツを代表する強豪。13世紀には皇帝位をも狙い、14世紀には皇帝ルートヴィヒ4世(ヴィッテルスバッハ家)を輩出。選帝侯としても長らく影響力を持ち続けました。バイエルンはナポレオン時代まで帝国内の超重要拠点でした。
もともとはスイス辺境の小領主でしたが、1273年にルドルフ1世が皇帝に選ばれてから一気に拡大。やがて“皇帝家”としてハプスブルク帝国を築き、オーストリア大公位に昇格。帝国の中心となる貴族へと成り上がった代表例です。
神聖ローマ帝国の複雑さを象徴するのが、帝国外にも領土や肩書きを持っていた“国際的貴族”たちの存在です。
ボヘミア王国(現在のチェコ)も神聖ローマ帝国の一部でありながら、独自の王国として強い自立性を持っていました。14世紀のカール4世(ボヘミア王兼皇帝)は、プラハを帝国の政治・文化の中心にまで押し上げた人物です。
西方に位置しながら、神聖ローマ帝国に属したバラ色の一族。フランス王家の分家であるブルゴーニュ家は、ネーデルラント(現在のベルギー・オランダ)一帯を支配し、帝国内での発言力を持ちました。後にハプスブルク家と結婚し、神聖ローマ帝国に莫大な富をもたらすことに。