
神聖ローマ帝国が「教会」と「皇帝」の主導権争いでもつれに入る──そんな時代の主役となったのがザーリアー朝です。前のザクセン朝が築いた帝国の枠組みを引き継ぎつつ、その体制にひずみが現れ始めたのがこの時期。特に叙任権闘争という、帝国を根底から揺るがす事件が発生したことで、ザーリアー朝は激動の王朝として歴史に刻まれました。
この記事では、ザーリアー朝の成り立ちから代表的な皇帝、教会との対立、そして後の王朝との違いまで、詳しく解説していきます。
ザーリアー朝が登場するのは、1024年。ザクセン朝最後の皇帝ハインリヒ2世が嗣子なく亡くなったことで、帝位が空白になったのがきっかけでした。
皇帝位を巡る選挙の結果、フランケン公コンラート2世が選ばれ、帝国の新たな支配者に就任。これがザーリアー朝(またはサリエル朝とも)の始まりです。フランケン地方を拠点としていたこの家系は、ドイツ王家としては比較的新参ながら、強力な王権の確立を目指して台頭してきました。
ザーリアー朝では、選挙による帝位承認の建前は維持しつつも、皇帝の子がそのまま後を継ぐという、事実上の世襲体制が進んでいきます。この時代から、神聖ローマ帝国の王権は「血筋」と「選挙」のあいだで揺れ動くようになるんですね。
ザーリアー朝の初代皇帝は、先述の通りコンラート2世(在位:1024年 - 1039年)です。
彼はまずドイツ王(ローマ王)に選ばれたあと、1027年にローマで皇帝戴冠を受け、正式に「神聖ローマ皇帝」となりました。内政・外交ともにバランス感覚に優れた人物で、イタリア政策の安定化やブルグンド王国の吸収など、帝国の拡大にも成功しています。
コンラート2世の時代は、まだ皇帝と教皇の関係は穏やかでした。互いに利害が一致すれば協力し、衝突があっても外交で解決するような、「大人な距離感」があったんです。
嵐が吹き荒れるのは、2代目ハインリヒ3世、そして特にハインリヒ4世の治世に入ってから。この後、ザーリアー朝は教会との激烈な対立に呑み込まれていきます。
ザーリアー朝を語る上で避けて通れないのが叙任権闘争(Investiture Controversy)。皇帝と教皇の「誰が司教を任命する権利を持つか?」という一大バトルでした。
当時、皇帝は帝国の安定を図るため、教会の人材を政治任用していました。これを「帝国教会政策」と言います。でも教皇からすれば、「神の僕たる聖職者に、世俗の王が口を出すなんて許せない!」という話になるわけです。
この対立がピークを迎えたのが、ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世との衝突。ハインリヒが破門され、なんとアルプスを越えて雪の中を教皇のもとへ謝罪に向かう──それが1077年の「カノッサの屈辱」です。
この出来事は、中世ヨーロッパにおける「皇帝より教皇の方が上」という構図を世に印象づけることとなりました。
叙任権をめぐる争いの中で、諸侯たちがどんどん皇帝の権威を無視し始め、帝国は事実上の分裂状態に。ザーリアー朝は、その収拾もできないまま終わりを迎えます。
ザーリアー朝の失敗(叙任権闘争)によって、「皇帝は全能ではない」という現実が突きつけられ、以降の皇帝たちはより戦略的にふるまわざるを得なくなります。その意味で、ザーリアー朝は神聖ローマ帝国が“神話”から“現実政治”へ移行する転換点だったとも言えるでしょう。
ザーリアー朝の次に登場するのはホーエンシュタウフェン朝。この二つの王朝の違いは、統治理念や皇帝のふるまいに顕著に現れています。
ザーリアー朝は、帝国内の秩序維持や教会との調整を重視しており、皇帝は現実的な調整役という色合いが強かったんです。とくにコンラート2世やハインリヒ3世は、教会と協力しつつ国政を安定させようとしていました。
一方のシュタウフェン朝、とくにフリードリヒ2世は、学問や芸術、法制化、都市統治まで踏み込み、まさに皇帝という理念そのものを追求した人物。皇帝の「普遍的支配者」としての理想像を打ち立てようとしたんですね。