神聖ローマ帝国時代のボヘミアの歴史

ボヘミア――現在のチェコ共和国を中心とするこの地域は、神聖ローマ帝国の中でも政治・宗教・民族といったあらゆるテーマが交差する超重要エリアでした。
カール4世やヤン・フスといったカリスマ的な人物を輩出し、選帝侯の一角を占める王国としての地位を誇りながら、時には帝国秩序の“揺るがし役”にもなったこのボヘミア王国――そのダイナミックな歴史を、神聖ローマ帝国との関係を軸に追っていきましょう!

 

 

「選帝侯」のボヘミア王国:帝国内でも特別な存在

ボヘミアは単なる領邦のひとつではなく、王国として特別な地位を持っていました。
帝国内でもとくに重要な役割を果たしていた、その立場と特徴をまず押さえておきましょう。

 

“王”の称号を持つ領邦

神聖ローマ帝国の構成国の多くは公国・伯国などですが、ボヘミアは独自に「王国」を名乗れる希少な存在でした。
しかもその王位は、教皇の承認を経て戴冠儀式なしに世襲できる、という特権も。
これは帝国内でも異例の自治と尊重を意味していたんです。

 

選帝侯としての地位

1356年の金印勅書によって、ボヘミア王は7人の選帝侯の1人として、皇帝選出に参加する正式な権利を持つことが明文化されます。
この地位によって、ボヘミア王国は帝国の政治決定に直接関与する中核プレイヤーになっていくのです。

 

カール4世とプラハの黄金時代

ボヘミアの中世における最盛期を築いたのが、神聖ローマ皇帝カール4世(在位1355–1378)。
彼はプラハを帝国の中心にしようとし、ボヘミアを文化と政治の首都へと引き上げました。

 

プラハ大学の創設

1348年、カール4世は中欧初の大学であるプラハ大学(現カレル大学)を創設します。
これは神聖ローマ帝国内で最初の大学でもあり、学術の中心としてボヘミアの名を一気に高めることになりました。

 

「カレル橋」と“新しいプラハ”

同じくカール4世によって建設されたカレル橋新市街(ノヴェー・ムニェスト)によって、プラハは壮麗な政治都市としても発展。
この時代、プラハは事実上の帝国首都として機能していたと言っても過言ではありません。

 

フス戦争と宗教的激震

ボヘミアの歴史の中でも最大の危機であり、かつヨーロッパ宗教史のターニングポイントとなったのが、15世紀のフス戦争です。

 

ヤン・フスの登場と処刑

ボヘミアの神学者ヤン・フスは、ローマ教会の腐敗や免罪符を激しく批判し、民衆の支持を得ました。
しかし、1415年のコンスタンツ公会議で異端とされ処刑。
この出来事はボヘミアに強い反カトリック感情と改革運動を生み出します。

 

フス派と神聖ローマ帝国の対立

フスの死をきっかけに、ボヘミアではフス派が結集し、カトリック勢力(帝国軍)と激しく衝突。
これがフス戦争(1419–1436)で、帝国軍は度重なる遠征にもかかわらず敗北を重ねます。
この戦争は、神聖ローマ帝国の宗教的一体性の崩壊の始まりともなったんです。

 

宗教改革と三十年戦争への導火線

ボヘミアは、16〜17世紀にかけても宗教問題の震源地であり続けました。
特にプロテスタントとカトリックの対立の中で、帝国全体を揺るがす事件がここから起こることになります。

 

“プラハ窓外投擲事件”が導いた大戦争

1618年、カトリックのハプスブルク家による圧政に反発したボヘミアの新教徒貴族たちは、プラハ城で皇帝代理人を窓から投げ落とすという事件を起こします。
このプラハ窓外投擲事件が引き金となって、三十年戦争が勃発。
ボヘミアはその最初の主戦場となってしまいます。

 

白山の戦いとボヘミアの悲劇

1620年の白山の戦いで、ボヘミア新教勢力は皇帝軍に大敗北。
その後は徹底的なカトリック化とドイツ化が進められ、ボヘミア王国はハプスブルクの管理下へと吸収されていきます。
この戦いは、ボヘミアにとって“自治と宗教の自由の終焉”を意味していました。

 

ボヘミアは、神聖ローマ帝国の中で常に最前線の火薬庫のような存在でした。
帝国の栄光を象徴するカール4世の都でありながら、フス戦争・宗教改革・三十年戦争と、帝国を揺るがす変革の震源地でもあった――
ボヘミアの歴史を知れば、帝国の強さと脆さ、その両方が見えてくるんです。