
中世の神聖ローマ帝国のなかで、独特な立ち位置と影響力を誇っていた地域があります。それがボヘミア──現在のチェコ共和国の中核をなすエリアです。ただの地方ではなく、そこは王国として独自の王を戴きながら、帝国の中核にも食い込んでいたという、ちょっと異質な存在でした。
この記事では、そんなボヘミアを一つの「帝国都市圏」として捉え、その「場所」「文化」「歴史」を通して、神聖ローマ帝国のなかでどう機能していたのかをわかりやすくかみ砕いて解説していきます。
ボヘミアという名を聞いても、どこにあるかピンとこない人も多いかもしれません。まずは、その地理的な特徴から見ていきましょう。
ボヘミアはシュマヴァ山地・ズデーテン山地などに囲まれた自然の要塞のような場所に広がる盆地地帯。その中心にあるのが、今もチェコの首都であるプラハです。この地形は他勢力からの侵入を防ぐ一方で、安定した内政基盤を築く条件ともなりました。
ボヘミアはドイツ方面とポーランド・ハンガリー・バルカン方面をつなぐ交通の十字路にあたり、古くから商人や軍隊が行き交う場所でもありました。こうした地理条件が、のちに王国としての独立性や経済力にもつながっていきます。
ただの地方領域では終わらなかったボヘミア。そこには独自の宗教観や思想運動、芸術文化が育まれ、帝国の文化的多様性を代表するような土地となっていきました。
15世紀初頭、ボヘミアから登場したのが宗教改革の先駆者ヤン・フス(1370頃 - 1415)。彼の思想はフス派運動として帝国全体に衝撃を与え、のちのルターにも影響を与えたとされます。つまり、宗教改革の“プロローグ”を演じた地だったのです。
1348年に創設されたプラハ大学は、神聖ローマ帝国内で最古の大学。ここではスコラ学・神学・法学などが盛んに教えられ、フスもこの大学で教鞭を執っていました。ボヘミアは“知の前線基地”でもあったんですね。
ボヘミアにはチェコ系スラブ人を中心とした文化が根づく一方で、神聖ローマ帝国の枠内にあったことからドイツ語・ドイツ文化の影響も強く入り込んでいました。この二重文化的な性格が、ボヘミアの複雑さと豊かさの根っこなんです。
ボヘミアは単なる地方ではなく、「王国」として帝国に加盟していました。つまり、神聖ローマ帝国内の“国家”の一つだったということ。その歴史をひも解くと、帝国の構造の多様さが見えてきます。
ボヘミアは11世紀に王国として昇格し、以後は帝国に属しながらも独自の王を戴く存在となります。しかもその王は、選帝侯の一人として皇帝選出にも関わるという特別な地位。つまり帝国の一部でありながら、“内部国家”のような役割を果たしていたんですね。
14世紀に登場したカール4世(1316 - 1378)は、ボヘミア王にして神聖ローマ皇帝。プラハを拠点にカレル橋や聖ヴィート大聖堂を建設し、帝国の都をプラハに移そうとすらした人物です。この時期、ボヘミアは実質的な帝国の中心地になっていました。
フス派の弾圧を発端とするフス戦争(1419 - 1434)では、ボヘミアが神聖ローマ帝国からの離反状態に入ります。宗教対立が政治的独立運動にもつながり、帝国の宗教的一体性を揺るがすことになったのです。