
神聖ローマ帝国の皇帝って、もともとは選挙で選ばれるポジションだったんですよね。
それなのに、歴史の途中から「あれ、毎回あの家の人が皇帝になってない?」みたいな状態になってきます。
そう、気づけばいつもハプスブルク家。選挙のはずなのに、まるで世襲制みたいになってたんです。
ではなぜ、選挙制だった神聖ローマ皇帝の位が、事実上世襲制へと変わっていったのか?
この記事ではその理由を、歴史の流れに沿ってひもといていきます!
|
|
まず大前提として、神聖ローマ皇帝は世襲ではなく選挙によって決まる存在でした。
1356年の金印勅書によって、皇帝の選出方法が正式に制度化されました。
それによると、皇帝を決めるのは7人の選帝侯(エルプフュルステン)たち。
つまり、本来は「毎回、立候補者の中から選びます」っていう仕組みだったんです。
とはいえ、制度上は“選挙”だったとしても、実際にはある程度の血筋・名声・軍事力が求められました。
結果として、毎回のように特定の名門貴族が候補に挙がることに。
その中でも、ハプスブルク家は群を抜いて優勢だったんです。
15世紀以降、ほとんどの皇帝位はハプスブルク家が独占します。じゃあ、どうやって選挙なのに勝ち続けたのか?
皇帝選挙には選帝侯たちへの贈り物・交渉・根回しが不可欠。つまり、お金がかかるんです。
ハプスブルク家は広大な領地と資産を背景に、圧倒的な財政力で他の候補を圧倒。
たとえばカール5世の選挙では、あからさまに金で選帝侯の支持を買ったという記録もあります。
ハプスブルク家の伝家の宝刀といえば婚姻政策。「戦わずして領土を得よ」の精神で、各地の有力家系と結婚を重ね、ヨーロッパ中に血縁ネットワークを築きました。
これによって、選帝侯たちとの人的なつながりが強まり、選挙での影響力も絶大に。
数世代にわたってハプスブルク家の人間が皇帝に就くと、選帝侯たちの中にも「まぁ次もハプスブルクでいいか…」という空気感が生まれます。
「おなじみの人」「一番安定してる」って感覚ですね。
その結果、形式的には選挙でも、実質は世襲というのが慣習化していくんです。
ただし、最後まで神聖ローマ皇帝の位が完全な世襲制になったわけではありません。
ハプスブルク家が独占していても、選挙そのものは毎回ちゃんと行われていました。
つまり「結果的にハプスブルクになった」だけで、選帝侯が形式上の正統性を維持していたんです。
13世紀まではシュタウフェン家やルクセンブルク家なども皇帝に就いていましたし、一時的にヴィッテルスバッハ家など他家の人物が皇帝になったこともあります。
ただ、ハプスブルク家の“支配率”が圧倒的すぎたんですね。
神聖ローマ皇帝は本来、選挙で選ばれる立場でした。
でも現実には、経済力・婚姻戦略・長期的な慣習によって、ハプスブルク家が事実上の世襲体制を築いていったんです。
つまりこれは、制度は選挙でも、現実は“選ばれた王朝”による安定政権だったということなんですね。