神聖ローマ帝国とオーストリアは別物?その違いを解説

オーストリアと神聖ローマ帝国の違い

神聖ローマ帝国は多くの領邦で構成された帝国全体の枠組みであり、オーストリアはその中の一領邦(ハプスブルク家の支配地)にすぎなかった。ただし16世紀以降、ハプスブルク家が皇帝位を事実上世襲し、オーストリアが帝国の中心的存在となっていくことで両者の境界が曖昧になった。

神聖ローマ帝国とオーストリアは別物?その違いを解説

中世ヨーロッパの歴史を学んでいると、「神聖ローマ帝国」と「オーストリア」がごっちゃになってきませんか?とくに近世以降のヨーロッパ史では、ハプスブルク家が両者を支配していたこともあって、ほぼ同じもののように見えることも。でも、実はこのふたつ、成り立ちも性格もまったくの別物なんです。


今回は「神聖ローマ帝国とオーストリアってどう違うの?」という疑問に答えるため、それぞれの役割や構造、歴史上の立ち位置の違いをわかりやすくかみ砕いて解説します。



神聖ローマ帝国は“連合体”だった

まずは神聖ローマ帝国のほうから。その実態は“ひとつの国”ではありませんでした。


多民族・多国家の集合体

神聖ローマ帝国は、数百もの諸侯領・都市・教会領が集まった分権的な政治体制。ドイツ語圏を中心としつつも、チェコやイタリア北部なども含まれており、民族的にも言語的にも多様でした。それぞれの構成国が独立性を保ちながら、ゆるく皇帝を頂点とする“枠組み”でまとまっていたんです。


皇帝の権力は限定的

この帝国では、皇帝の権力はかなり制限されていました。選帝侯による選挙制で選ばれた皇帝は、構成国に命令を出せるとはいえ、実際には協力を得ないと何もできない状態。つまり、神聖ローマ帝国は「見えない国」だったともいえるんですね。


オーストリアは“実体ある王国”だった

一方でオーストリアは、神聖ローマ帝国の中にある“ひとつの国”としてスタートしますが、やがて帝国を超える実体を持つようになります。


ハプスブルク家の世襲領

オーストリアはもともと東方辺境領(マルク)と呼ばれていた地域。13世紀にハプスブルク家がこの地を手に入れて以降、オーストリアは彼らの本拠地となりました。そして14世紀以降、ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を“ほぼ独占”するようになり、両者は政治的に重なっていきます。


1477年のオーストリア大公国地図

1477年頃のオーストリア大公国の領域(1477年)
ハプスブルク家の根拠地オーストリア大公国は、神聖ローマ帝国内で最も有力な領邦としてその権勢を築いた。

出典:MonoTightt(著者) / CC0 1.0(Public Domain Dedication)


帝国崩壊後も独立国家として継続

1806年、神聖ローマ帝国がナポレオンによって解体されると、ハプスブルク家はそのままオーストリア帝国を設立し、以降は完全に独立した主権国家として歩み始めます。つまり、神聖ローマ帝国が“消えた後も残った”のがオーストリアなんです。


“名前の継承”と“実体の違い”に注目

ではなぜこのふたつが混同されやすいのか?そこには“名前”と“家系”のトリックがあるんです。


ハプスブルク家が両方に関わっていた

神聖ローマ帝国とオーストリアは、長らくハプスブルク家によって同時に支配されていました。このため歴史の文脈では、皇帝=オーストリアの王という構図が強く印象づけられ、ふたつが同一視されやすくなったんですね。


神聖ローマ帝国の「後継者」を名乗った

帝国崩壊後、オーストリアは自らを「帝国の継続者」として位置づけ、威信と正統性を保ちました。実際には神聖ローマ帝国とは制度も規模もまったく違うのに、名前やイメージ戦略によって「続き物」のように見せていたわけです。


「神聖ローマ帝国とオーストリアの違い」まとめ
  • 帝国と王国のちがい:神聖ローマ帝国は連合体、オーストリアは実体ある主権国家だった。
  • 皇帝と領主の立場の違い:帝国の皇帝は選挙で選ばれ、オーストリアの君主は世襲だった。
  • 名前と家系が混同を招いた:ハプスブルク家が両方を支配し、見た目は似ていたが中身は別だった。