神聖ローマ帝国の「中央集権化」が最も進行していた時期は?

神聖ローマ帝国って基本的には“ゆるやか連合”で、中央集権からは遠いイメージがありますよね。
でも、じつはその中でも「ちょっとこれはガチ皇帝国家じゃない?」ってくらい、皇帝の力が集中した時期があるんです。
それがズバリ、ホーエンシュタウフェン朝の時代(12~13世紀)
特にフリードリヒ1世(バルバロッサ)とフリードリヒ2世の時代には、帝国の中央集権化がぐっと進んでいきました。
この記事では、その時期に何が起きたのか、なぜ「中央集権が進んだ」と言えるのかを詳しく見ていきます!

 

 

ホーエンシュタウフェン朝の中央集権ってどんな感じ?

この時代の神聖ローマ皇帝たちは、諸侯に遠慮するどころか、帝国全体を直轄地みたいに扱おうとした野心家ばかりでした。
特にフリードリヒ2世の治世では、皇帝がまるで絶対君主みたいな統治を目指して動いていたんです。

 

バルバロッサの「皇帝権威回復」作戦

フリードリヒ1世(バルバロッサ)は、諸侯の力が強まっていた帝国を立て直そうと、皇帝の権威を取り戻すべく法制度・官僚制・軍事権の強化を推し進めました。
特に有名なのが、1158年のロンカリア法令。これによって皇帝の立法権や裁判権が明文化され、「皇帝こそ法の源泉だ!」という強いメッセージを打ち出したんです。

 

フリードリヒ2世は“中世の絶対王政”を目指した

彼はシチリア王国を併せ持つ超巨大な権力者で、南イタリアでは近代国家並みの中央集権体制を築いていました。
帝国でもそれを再現しようとして、直属官僚や常設法廷の設置など、制度改革を次々と実施。
その一方で、諸侯には「お前らは地方をよろしく」と地方分権との“分業体制”を確立しようとしたんです。
これが意外にも中央と地方のバランスが整った効率的な統治として機能しはじめます。

 

じゃあ、なぜその中央集権は続かなかったの?

こうして見ると、「もうこのまま絶対王政いけるんじゃ?」と思えてきますよね。
でもそううまくはいかなかったのが、神聖ローマ帝国という“クセつよ”構造なんです。

 

諸侯たちが巻き返しに出た

皇帝の権力が強くなりすぎると、当然ながら諸侯たちは面白くないわけで…。
フリードリヒ2世の死後、すぐに反皇帝派が台頭し、ホーエンシュタウフェン家もあっという間に断絶。
その後は大空位時代へと突入し、再び「皇帝ってちょっと控えめでよくない?」ムードが広がっていきます。

 

教皇との対立が致命的に

中央集権を進めるためにフリードリヒ2世がやりすぎた結果、ローマ教皇との関係が完全に破綻。
教皇側が「皇帝はもういらない!」とまで言い出し、皇帝の権威そのものが宗教的に否定されてしまいました。
これが帝国内の分裂をさらに深刻化させることになります。

 

神聖ローマ帝国の中央集権化が最も進んでいたのは、ホーエンシュタウフェン朝、とくにフリードリヒ2世の時代でした。
でも、それは同時に皇帝と諸侯、皇帝と教皇の対立も激化するタイミングだったんです。
だからこそこの時期は、「中央集権のチャンス」と「それを許さない構造」のせめぎ合いが、ギュッと詰まった超重要フェーズなんですよ。