
中世から近世にかけて千年続いた神聖ローマ帝国。その内部は、皇帝がすべてを支配する単純なピラミッド構造……ではありませんでした。むしろこの帝国、数百の領邦国家のゆるやかな集合体という側面が強く、各地に君臨する“ミニ王様”たちが大きな力を握っていたのです。
その“ミニ王様”こそが諸侯(しょこう)。皇帝の命令を受けつつも、実際には広大な土地や兵力、政治的影響力を持って、帝国運営に深く関わっていました。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国の諸侯という存在について、他の身分や称号との違いにもふれながら、わかりやすくかみ砕いて解説します。
諸侯とは、帝国内でどんな立場にあり、どれほどの力を持っていたのか? まずはその基本から押さえておきましょう。
神聖ローマ帝国における諸侯(Fürsten)とは、皇帝に直属し、帝国議会(ライヒスターク)に議席を持つ“帝国等族(ライヒスシュタント)”の中でも、特に高位の支配者たちを指します。代表的なのは、選帝侯・大公・公爵・辺境伯など。
つまり、単なる土地持ちではなく、帝国全体の政治に参加する資格を持った身分だったんですね。
諸侯の持つ領邦(レーン)では、軍事・司法・税制・外交に至るまで、ほぼ完全な自治が許されていました。皇帝の命令が届くとはいえ、実際の支配者は諸侯自身。なかには自分で法律を作り、外国と条約を結ぶような諸侯も存在しました。
それもそのはず──数万人の軍を動員できる諸侯もいたのです。
よく混同されがちな諸侯と貴族。でもこのふたつ、似ているようで重要な違いがあります。
貴族(Adel)は、広く“身分的に特権をもつ階級”全体を指します。騎士も伯爵も大公も含まれる。つまり、諸侯は「貴族の中の貴族」という感じです。
とくに世襲制の支配領土と帝国議会での発言権を持つのが、貴族の中でも「諸侯」と呼ばれる資格となるわけですね。
たとえば帝国騎士や小規模な男爵などはたしかに貴族ですが、帝国等族ではないため、帝国の立法過程には加われません。土地は持っていても、独立した“国”ではなかったわけです。
「土地を持って支配する人=領主」──じゃあ諸侯もそのひとつ? 実はこれにも区別があります。
領主(Lehnsherr)という言葉は、封建制における「封土を持つ人」を指します。騎士や修道院長なども領主になれましたが、その多くは諸侯に仕える立場であり、帝国全体の政治には関与できませんでした。
要は“土地持ち”だけど、規模も影響力も諸侯には遠く及ばないわけですね。
一方で諸侯は、領地の中で法律を定め、軍隊を編成するといった、国家のような機能を果たす存在でした。しかもその権限は帝国によって公式に認められていたので、ただの領地所有者とは格が違うのです。
では、諸侯と王(König)とは何が違うのでしょうか? いずれも支配者ですが、その「格」には差があります。
王はひとつの国家をまるごと統治する主権者であり、その地位には神授的な正統性があるとされていました。それに対し諸侯は、神聖ローマ帝国内にある“一部の地域の君主”であり、独立国の主とはされません。
つまり諸侯は「国の中の王様」、王は「国そのものの王様」という違いです。
ただし、現実には諸侯の中にもバイエルン選帝侯やザクセン公のように、スウェーデンやポーランドの王よりも豊かな財政や強力な軍を持つ者もいました。形式と実力が必ずしも一致しなかったのが、この時代の面白いところです。
最後に、帝国で最下層の支配者層といえる騎士(Ritter)との違いを見ていきましょう。
騎士は領地をもらって軍務を果たす武士的存在。帝国騎士団などは自立性もあったものの、多くの騎士はより上位の貴族や諸侯に従属していました。つまり封建ピラミッドの下層に位置するのが騎士たち。
軍事的には重要でも、政治的には「発言権ゼロ」の存在だったわけです。
これに対して諸侯は、自ら軍を持ち、外交を行い、法を定める「国家的存在」でした。騎士が戦うのは諸侯の命令であって、騎士自身が戦争を始めたり条約を結ぶことはできません。
この違いはまさに、「実行者」と「決定者」という役割の差にあらわれていたのです。