
神聖ローマ帝国が「なんでこんなにバラバラだったの?」って話になると、必ず出てくるのが“諸侯(しょこう)”という存在です。
彼らは、帝国内のあちこちでほぼ独立国みたいな権力を持っていて、皇帝が「よし、帝国まとめるぞ!」って動こうとしても、「いやうちはうちでやるんで」と堂々と突っぱねてくる。
この記事では、その神聖ローマ帝国を“統一させなかった”張本人=諸侯とは何なのか、そしてよく似た存在に見える“騎士”とどう違うのかを、しっかり解説していきます!
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ひとことで言うと、諸侯とは神聖ローマ帝国内で「領地を支配する貴族」のこと。
ただのお金持ちじゃなくて、軍隊も法律も税も持ってた、地方の王様レベルの存在なんです。
彼らの支配地は領邦(りょうほう)国家と呼ばれていて、それぞれが軍隊・行政・裁判権を持つ自治体でした。
つまり皇帝の命令が直接通らず、ほとんど独立国といっても差し支えないレベルだったんです。
その中でも特に力のある7名(のちに増加)が選帝侯として皇帝を選ぶ役割を担っていました。
彼らは名実ともに「皇帝の上にも顔が利く」存在だったんですね。
諸侯と並んでよく登場するのが騎士(リッター)たち。
どちらも中世的な「武人」に見えるけど、立場もスケールも全然違います。
騎士は領地を持たない、または小さな所領しか持たない下級貴族で、多くは大貴族や諸侯に仕えて軍事奉仕と引き換えに土地や地位を得ていました。
つまり諸侯に雇われる側だったわけです。
一方の諸侯は完全に自分の領地を持ち、自らが統治する存在。
たとえば、税金を自分で決めて集めたり、領内の裁判を自分でやったり、戦争があれば自前の軍を率いて参戦する――そんなスケール感でした。
皇帝がいくら「帝国をひとつにまとめよう」としても、諸侯たちは徹底的に自分たちの自治権を守ろうとしました。
この構図こそが、神聖ローマ帝国が“バラバラのまま”だった最大の理由なんです。
皇帝は選挙で決まる=諸侯の協力なしでは即位できないという仕組みでした。
だから「中央集権します!」って言おうものなら、次の選挙で落とされる可能性があるんです。
たとえば1356年の金印勅書では、選帝侯の権利が明文化されていて、帝国内での皇帝よりも優先される特権がしっかり保障されていました。
これにより諸侯はますます「自分の領地は自分で守る」というスタンスを固めていきます。
騎士たちは、自分の力で帝国に影響を与えることはあまりできませんでした。
でも時代が進むにつれて、「自由騎士団」や「騎士団国家」として一定の独立性を持つ者も出てきます。
バルト海沿岸などで活動したドイツ騎士団は、十字軍の一環で東方に領地を持ち、事実上の“騎士による国家”を作り上げました。
ただし彼らはあくまで“帝国外”のプレイヤーで、神聖ローマ帝国内では諸侯に敵わない立場です。
ほとんどの騎士たちは、次第に領邦国家の行政官や軍人として組み込まれていき、個人としての独立性は薄れていきました。
つまり、諸侯の権力が大きくなればなるほど、騎士たちは吸収されていったわけですね。
神聖ローマ帝国の「統一」を阻んできた最大の壁――それが諸侯という存在でした。
彼らはただの地方貴族じゃなくて、ほぼ国家レベルの自治権を持つ“帝国の中の帝王たち”。
騎士とは違い、雇われる側じゃなく支配する側だったからこそ、帝国が最後まで「ひとつになれなかった」理由が、そこに詰まっていたんです。