

中世後期から近世にかけて、神聖ローマ皇帝の座はハプスブルク家の“指定席”のようになっていきました。「選挙で選ばれるはずなのに、なぜ同じ家系がずっと皇帝に?」──これ、実は帝国の成り立ちや制度、そしてハプスブルク家のしたたかな戦略が絡み合った結果なんです。
この記事では、神聖ローマ皇帝位がハプスブルク家によってほぼ独占された理由を、制度面・戦略面・歴史背景の3つからわかりやすくかみ砕いて解説していきます。
本来は選ばれる立場だった皇帝位が、なぜ固定化されたのか?制度のカラクリを見てみましょう。
神聖ローマ帝国では、7人(のちに増減あり)の選帝侯が皇帝を選出する制度が定められていました。でも、選帝侯たちの多くは代々同じ領邦に固定されていたんです。つまり、「選ぶ側」が世襲制だったので、そこに働きかけ続ければ“票を固める”ことも可能でした。
ハプスブルク家は、現皇帝の在任中に息子を選帝侯たちに承認させておく「ローマ王選出」というテクを使っていました。こうすることで、父から子へのバトンがスムーズに継承され、実質的に「選挙による世襲」が成立していたんです。

アルブレヒト2世の肖像
「ローマ王」として神聖ローマ帝国の正統な支配者の一人で、ハプスブルク家による帝位の事実上の世襲時代の起点とされる人物
出典:Kunsthistorisches Museum / Public domainより
制度だけでなく、巧みな婚姻と交渉が“独占”を支えていました。
ハプスブルク家といえば有名なのが「戦争ではなく結婚で征服せよ」のモットー。中世後期、スペインやボヘミア、ハンガリー、ネーデルラントなどの王家と次々に婚姻関係を結び、巨大な勢力圏を築き上げました。
皇帝になるには選帝侯の支持が必要──ならば、その“支持”を買ってしまえばいい。ハプスブルク家は、選帝侯たちに土地や特権を提供したり、貴族との縁戚関係を築いたりすることで、票を着実に集めるノウハウを持っていたんです。
実は他家が皇帝になったこともありますが、それが“例外”扱いになるほど、ハプスブルク家の地位は強固でした。
14世紀にはルクセンブルク家出身の皇帝(カール4世など)が活躍しましたし、15世紀にはバイエルン家などが短期間皇帝位についたこともあります。ただ、いずれも長期的には続かず、権力基盤が弱くて持ちこたえられなかったんですね。
16~17世紀にかけて、宗教的対立が激化する中で「カトリックの守護者」としてふるまったハプスブルク家は、皇帝としての正統性を逆に強めていきます。三十年戦争後のヴェストファーレン条約でも、彼らの地位はしっかり保持されました。