
神聖ローマ帝国をズタズタにした「三十年戦争(1618~1648)」──その引き金となったのが、あまりにもシュールな名前の事件、プラハ窓外投擲事件(とうてきじけん)です。
名前のとおり、「窓から人を投げた」ことが発端なんですが、単なるケンカではなく、背後には宗教・政治・支配権をめぐる超シリアスな背景がありました。
この記事では、この事件がどうして起こり、なぜ三十年戦争にまで発展したのかを、わかりやすく整理していきます。
舞台はボヘミア王国、現在のチェコ共和国。ここが帝国の火薬庫でした。
当時の神聖ローマ帝国では、カトリックとプロテスタント(特にカルヴァン派)が激しく対立していました。ボヘミアではプロテスタントの信仰の自由が一応認められていたものの、新たに即位した皇帝フェルディナント2世(敬虔なカトリック)は、これを徐々に制限し始めたんです。
これにボヘミアのプロテスタント貴族たちが反発。「このままだと信仰の自由が消える!」という危機感が募っていきます。
プラハの王宮には皇帝の命令を伝えるカトリック側の高官たちがいました。彼らが「教会の土地を取り戻せ」とか「プロテスタント礼拝所は違法」とか言い出したことで、ボヘミアのプロテスタント側は完全にキレます。
そして──事件は起きました。
1618年5月23日、ついに爆発した怒りは、暴力という形で現れます。
ボヘミアのプロテスタント貴族たちは、プラハ城にいた皇帝派の高官2人+書記1人を問い詰めた末、なんと三人まとめて城の窓から投げ捨てました。
しかもその高さは約20メートル!
これがいわゆる「窓外投擲(デフェネストラツィオ)」です。
驚くべきことに、三人とも死ななかったんです。「藁の上に落ちたから」とか「天使が助けた」とか諸説ありますが、どちらにせよ、この事件の象徴性は強烈。
「皇帝の代理人を城から放り投げる」=完全な反乱と見なされ、帝国側も激怒しました。
では、たった一度の“窓投げ”が、どうして欧州全土を巻き込む大戦争になったのでしょうか?
事件の直後、プロテスタント勢力は独自に王を選出(フリードリヒ5世)して皇帝に反旗を翻します。これが「ボヘミア反乱」の始まり。
当然、皇帝フェルディナント2世はこれに強硬対応。武力鎮圧に乗り出し、帝国内の他の諸侯もカトリック陣営・プロテスタント陣営に分かれて全面対決へ。
この対立に、デンマーク、スウェーデン、フランスといった外国勢が次々と参戦。もはや神聖ローマ帝国の内戦というより、ヨーロッパ大戦の様相を呈していきます。
つまり、「一つの窓から始まった怒りの投げ捨て」が、世界史レベルの戦争に直結してしまったという、ある意味すごすぎる事件だったわけです。