
神聖ローマ帝国って「バラバラで統一感がない」ってよく言われますよね。実際その通りなんですが、その体質は実は貨幣制度にもモロに出てました。
「帝国のお金=統一通貨」があると思いきや、出てくるのは都市、諸侯、騎士団、それぞれが発行した大量のコインたち。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国の貨幣の歴史を追いながら、どうしてそんなにバラバラになったのか、でもなぜそれで回っていたのか?をわかりやすく解説します!
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神聖ローマ帝国の貨幣制度は、基本的に古代ローマの名残とカロリング朝の制度をベースにスタートしました。
800年の戴冠で“皇帝”となったカール大帝は、自身のフランク王国で銀貨を中心とした貨幣制度(デナリウス制)を採用。
神聖ローマ帝国もその流れを汲み、銀貨=基本通貨の形を長く維持していきます。
ちなみにこの時代の貨幣は、基本的に重さと純度で価値が決まる「秤量貨幣」でした。
初期には皇帝が貨幣鋳造権(ミンツレヒト)を独占。
これは「皇帝の象徴的な権利」のひとつであり、貨幣の顔に皇帝の名や紋章が刻まれていました。
11〜13世紀にかけて、神聖ローマ帝国の分権化が進むと、貨幣発行権もどんどん分裂していきます。
その結果、100以上の通貨単位が並立するカオス状態に!
でも、これが逆に地域ごとの経済的自立を可能にしていたとも言えるんです。
この時代、神聖ローマ帝国では全国的通貨というよりも、地域ごとの“経済圏通貨”が形成されるスタイルが主流になっていきます。
例えばバイエルン地方ではヴィッテルスバッハ家の通貨、ザクセン地方ではアスカーニエン家の通貨…というように、政治=経済圏の重なりがくっきりしてきます。
とはいえ、「これじゃ不便じゃない?」と感じる人たちが出てきて、貨幣の統一を目指す動きも何度か起こります。
という具合で、結局、皇帝が通貨政策を統括する仕組みは作れませんでした。
たとえば
これらは地域を超えて使える“事実上の共通通貨”として流通しました。
神聖ローマ帝国の貨幣制度は混沌としていたけど、それはある意味帝国の「多様性そのもの」でもありました。
都市や地域が自分たちで為替相場を決めたり、信用を築いたりして、実際には経済は回っていたんです。
「帝国」としての統一はなくても、実用的な相互利用の仕組みはしっかり存在していました。
つまり、神聖ローマ帝国は「国家としての通貨統制」ではなく、都市・商人・諸侯が作る“地元経済圏”のネットワークによって、長く繁栄を維持していたとも言えるんですね。
神聖ローマ帝国の貨幣の歴史は、まさにこの国の特徴をそのまま映した“鏡”のような存在です。
バラバラでまとまりがない、けど現場はしっかり機能してる――
この柔軟な多様性こそが、千年帝国が生き延びた秘密だったのかもしれません。