
「ヨーロッパの中心にあって、1000年も続いた大帝国なんだから、さぞ立派な“統一通貨”があったんでしょ?」──そう思ってしまいがちですが、実は神聖ローマ帝国には最後までひとつの貨幣制度というものは存在しませんでした。バラバラな国々、バラバラな通貨、そして時には“信用できない”お金まで…。でも、そんな複雑な貨幣事情こそが、帝国らしさでもあったんです。今回は、そんな神聖ローマ帝国における貨幣の世界をのぞいてみましょう!
そもそも貨幣経済とは、人々が物々交換ではなく、お金を仲介して取引を行う経済のことです。
9~10世紀ごろのヨーロッパでは、土地や物資を直接やりとりする経済が主流でしたが、商業都市の発展や交易の活性化にともない、貨幣による取引がだんだんと定着していきました。
貨幣は単なる“道具”ではなく、権力や信頼の象徴でもありました。だからこそ、どの君主がどんな貨幣を発行するかは、まさに政治そのものだったんです。
貨幣経済が成り立つには、「このコインは本物だ」と思ってもらうことが不可欠。そのため、銀や金の純度、鋳造主の信用度が超重要ファクターとなりました。
神聖ローマ帝国は、一貫した通貨体制がなかった代わりに、各地で多彩な通貨文化が育まれていました。
9世紀ごろにはカール大帝のもとでデナリウス銀貨(1ポンド=240枚の制度)が使われていましたが、これはあくまで西欧的な標準で、帝国全体には浸透しきれませんでした。
神聖ローマ帝国は分権国家。そのため、皇帝だけでなく、選帝侯・大司教・都市国家など、ありとあらゆる領邦が独自に貨幣を発行。なんと1000以上の貨幣種類が存在した時代もありました。
1551年と1559年にはアウクスブルク帝国貨幣条例が制定され、「帝国ターラー」の統一規格を導入しようとしましたが、各地の利害がぶつかって完全統一には至らず。それでも貨幣の“目安”としての役割は果たすようになります。
では、神聖ローマ帝国ではどんな種類の貨幣が使われていたのでしょうか? 代表的なものをいくつかご紹介します。
16世紀に登場したターラー(Thaler)は、ヨアヒムスタール銀山で鋳造された大型銀貨で、のちの“ドル(Dollar)”の語源になったものです。重くて高価値、国際通貨としての役割も果たしました。
金本位の貨幣として流通したグルデン(Gulden)は、特に南ドイツで人気があり、神聖ローマ帝国内の「高額取引」に使われました。フィレンツェのフローリン金貨に由来するとも言われます。
より小額の取引では、プフェニヒ(Pfennig)やヘラー(Heller)といった銅貨・低品位銀貨が流通。庶民の生活に密着した貨幣でしたが、質の悪い偽造品も多かったため、「信頼」が常に問われる存在でもありました。
ハンブルク・ニュルンベルク・ケルンなど、帝国都市はそれぞれ鋳造権を持ち、自前の貨幣を鋳造。都市名や紋章が刻印されたコインは、まさに“その町のブランド”でもあったんです。