

「神聖ローマ帝国」って名前なのに、なぜかドイツの話ばっかり──そう思ったことありませんか?でもこの帝国、“ローマ”の名を冠する以上、イタリアとの関係は避けて通れないんです。実際、歴代皇帝たちはアルプスを越えてイタリアへ向かい、ときには剣を抜き、ときには教皇に頭を下げてきました。今回は、神聖ローマ帝国がなぜそこまでイタリアにこだわったのか、その背景と展開をひもといてみましょう!
神聖ローマ帝国の皇帝に即位するには、形式上ローマ教皇から冠を授かる必要があったんです。
800年、フランク王カール大帝(742 - 814)がローマ教皇から皇帝冠を授かりました。この「西ローマ帝国の再興」こそが、神聖ローマ帝国の起点なんです。
962年、東フランク王オットー1世(912 - 973)もまたローマで教皇から帝冠を受け、「神聖ローマ皇帝」となります。以来、皇帝はドイツ王に選ばれ、イタリアで戴冠されるという流れが定着していきました。
当時のヨーロッパでは、「ローマ皇帝」の称号が神に選ばれた統治者を意味していました。つまり、イタリア(ローマ)で冠を得なければ、本物の皇帝とは認められなかったわけです。
皇帝の称号を得るために必要だったイタリアですが、支配するのは一筋縄ではいかない土地でもありました。
中世イタリアでは、ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェといった都市国家が経済的に発展し、皇帝の命令に従おうとしませんでした。「自治の誇り」が強かったんですね。
ローマを中心に強い影響力を持っていた教皇庁と、皇帝はしばしば衝突しました。11世紀の叙任権闘争、13世紀のギベリーニとグエルフィの争いなど、政治と宗教のパワーゲームはイタリアを主戦場にしていたんです。
皇帝フリードリヒ2世(1194 - 1250)は南イタリアを支配しつつ皇帝位にもあった“理想的な二重王権”の持ち主でしたが、教皇と衝突し、「反キリスト」とまで呼ばれるほどの対立を生みました。以後、ホーエンシュタウフェン家はイタリアで没落していきます。
時代が進むにつれ、神聖ローマ帝国とイタリアの関係は次第に実体を失っていきます。
皇帝は代々、「イタリア王」としての称号を持っていましたが、16世紀以降は実質的な支配力を持たなくなります。つまり称号だけは残ったが、実権はほぼなしという状態だったのです。
16世紀、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれ、ナポリやミラノを実際に統治します。神聖ローマ皇帝が直接支配するのではなく、家門を通じたイタリア関与が主流となっていきました。
1806年、ナポレオンの圧力で神聖ローマ帝国が解体され、帝国とイタリアの“名目上の関係”も終了します。以後、イタリアは統一運動(リソルジメント)の道を歩み、完全に別の国へと進んでいきました。