神聖ローマ帝国の「建国者」を探る─誰が作った国なの?

神聖ローマ帝国は「誰が作った」のか

神聖ローマ帝国の「建国者」とされるのは、962年に皇帝として戴冠されたオットー1世。彼は東フランク王国を基盤に教会と協力し、カロリング帝国の理念を継承する形で新たな帝国体制を築いた。800年に皇帝となったカール大帝も理念的な先駆者だが、帝国の制度的・政治的基礎を築いたのはオットー1世とされ、歴史学上は彼が神聖ローマ帝国の「建国者」と位置づけられる。

神聖ローマ帝国の「建国者」を探る─誰が作った国なの?

神聖ローマ帝国って、どこか名前が壮大で“最初から大帝国だった”みたいなイメージがありますよね。でも実はその成り立ちはかなり複雑で、「この人が建国者です!」と一言で言い切れない事情があるんです。


この記事では、「神聖ローマ帝国は誰が作ったのか?」という問いに迫りつつ、カール大帝からオットー1世にいたる流れと、それぞれの“建国者らしさ”をわかりやすくかみ砕いて解説していきます。



カール大帝がつくった“原型”

8世紀末に西ヨーロッパを統一したカール大帝(シャルルマーニュ)は、のちの神聖ローマ帝国の“原型”を築いたとされています。


西ローマ帝国の復活を掲げた

800年、ローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の冠を授かったカール大帝。この出来事は「西ローマ帝国の再興」とも言われ、帝国の精神的な出発点とされることが多いです。ラテン文化、キリスト教、ローマ法といったローマ文明の三要素を引き継いだ「中世型ローマ帝国」としての始まりだったわけです。


帝国はすぐに分裂してしまった

ただし、カール大帝の死後、子や孫たちの代で帝国はフランク王国の三分割によりバラバラに。その後、帝国としての継続性は途切れ、特に「ローマ皇帝」の称号も一時的に消滅します。つまり、カール大帝は“創始者”ではあっても“制度的な建国者”ではなかったんですね。


オットー1世がつくった“制度”

カールの帝国が崩れたのち、ドイツ王国を統一し、新たに「皇帝」を名乗ることで制度的な“神聖ローマ帝国”を築いたのがオットー1世(912 - 973)です。


東フランク王国を再編した

オットー1世はザクセン朝の王として、バラバラだった東フランク王国(ドイツ)の諸侯たちを従え、国家のまとまりを回復。962年、教皇ヨハネス12世によって「ローマ皇帝」に再び戴冠されたことで、帝国の称号が正式に復活しました。


教会と一体化した統治体制を構築

オットー1世は教会の組織力を国家運営に取り込むという、新しい仕組み「帝国教会制度」を整備。これによって皇帝と教会の結びつきが強まり、「神聖ローマ帝国」という名称にふさわしい宗教的権威政治的秩序を両立させたのです。


「誰が建国者か」は視点で変わる

カール大帝とオットー1世、どちらも建国者として語られますが、それぞれ意味が違うんです。


理念の創始者=カール大帝

ローマの再興、キリスト教世界の統一、皇帝と教皇の結びつき──こうした「帝国のイメージ」を初めて形にしたのは、間違いなくカール大帝。精神的・象徴的な意味での建国者だといえるでしょう。


制度の創始者=オットー1世

一方で、教皇による戴冠を受け、かつ皇帝制度を国家運営に定着させたのはオットー1世。神聖ローマ帝国が“国として機能”するようになったのはこの人からなんです。


「神聖ローマ帝国の建国者」まとめ
  • カール大帝:ローマ帝国復興という理念を掲げ、精神的な出発点をつくった。
  • オットー1世:制度としての皇帝位を復活させ、教会と一体の体制を築いた。
  • 建国者は“理念”と“制度”の両面で見る必要がある:どちらか一方では語りきれない。