神聖ローマ帝国って誰が作ったの?

神聖ローマ帝国って、「ローマ」って名前がついてるから、古代ローマの延長線にあるのかな?って思われがちですが、実はまったく別物。
その起源は、中世ヨーロッパのとある出来事——そう、800年にあったカール大帝の戴冠から始まるんです。
この記事では、「神聖ローマ帝国ってそもそも誰が作ったの?」という素朴な疑問に答えるため、帝国の誕生までの経緯をひも解いていきます。
皇帝ってどんな人?どうやって“帝国”が名乗れるようになったの?そんな疑問がすっきりする内容になってますよ。

 

 

カール大帝こそ“建国の父”

「神聖ローマ帝国は誰が作ったの?」という問いの答えはズバリ、カール大帝(742 - 814)です。
でも、彼が最初から「神聖ローマ帝国」を名乗っていたわけじゃないんですよ。

 

フランク王国の王だった

カール大帝はもともとフランク王国というゲルマン系の国の王様でした。
彼は広大な領土を征服して、現在のフランス・ドイツ・イタリアなどを支配する一大帝国を築き上げたんです。
これだけでもすごいんですが、彼の名を歴史に残す最大の出来事が、このあと待っていました。

 

ローマ教皇により「皇帝」に

800年のクリスマスの日、カール大帝はローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」としての冠を授けられることになります。
これは「古代ローマ帝国の後継者」としての認定でもあり、「教会が皇帝を認める」という新しい関係性のスタートでもあったんです。
この瞬間が、のちに神聖ローマ帝国の起源とされる重要な出来事になります。

 

「神聖ローマ帝国」という名前は後の時代に

実は「神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich)」という呼び名が使われ始めたのは、もっと後の11世紀以降
最初は単に「ローマ帝国」とか「ドイツ王国」みたいに呼ばれてたんですね。
でも時代が進むにつれて、「これはただの帝国じゃない。神の加護を受けた神聖なローマの後継者だ!」っていう宗教的・政治的なアピールをこめて、あの名前が定着していきました。

 

どうしてカール大帝が帝国を作れたの?

フランク王から“皇帝”になれた背景には、彼の個人の力だけじゃなく、時代の空気や宗教の動きも大きく関係していました。

 

西ローマ帝国の“空白”を埋めた

476年に西ローマ帝国が滅亡してから、およそ300年間、「ヨーロッパで皇帝と名乗れる人」がいなくなってたんです。
その空白期間を埋める形で、カール大帝が教皇から「君こそ皇帝だ」と認められたという流れなんですね。
つまり、教会側からしても“守ってくれる強い味方”が必要だったという事情があったんです。

 

教会と王権の“セット販売”

この時代、教会(つまりローマ教皇)と世俗の王(つまり王様や皇帝)の間には、「どっちが上か」みたいな微妙な空気がありました。
カール大帝が皇帝に任命されたことで、教会と王権が手を取り合ってお互いの正当性を補強し合う構図ができたんです。
これがまさに「神聖ローマ帝国」の大きな特徴になっていくわけですね。

 

神聖ローマ帝国は、「これだ!」と明確に建国宣言された国じゃなくて、時代の流れの中でだんだんと形を成していった帝国なんです。
でも、その始まりを決定づけた人物がカール大帝であり、800年の皇帝戴冠こそが“建国の瞬間”だったというのが、多くの歴史家の見方です。
つまり、「誰が作ったの?」という問いには、「カール大帝とローマ教皇が協力して作った」と答えるのが一番しっくりくるんですね。