
神聖ローマ帝国って、どこか名前が壮大で“最初から大帝国だった”みたいなイメージがありますよね。でも実はその成り立ちはかなり複雑で、「この人が建国者です!」と一言で言い切れない事情があるんです。
この記事では、「神聖ローマ帝国は誰が作ったのか?」という問いに迫りつつ、カール大帝からオットー1世にいたる流れと、それぞれの“建国者らしさ”をわかりやすくかみ砕いて解説していきます。
8世紀末に西ヨーロッパを統一したカール大帝(シャルルマーニュ)は、のちの神聖ローマ帝国の“原型”を築いたとされています。
800年、ローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の冠を授かったカール大帝。この出来事は「西ローマ帝国の再興」とも言われ、帝国の精神的な出発点とされることが多いです。ラテン文化、キリスト教、ローマ法といったローマ文明の三要素を引き継いだ「中世型ローマ帝国」としての始まりだったわけです。
ただし、カール大帝の死後、子や孫たちの代で帝国はフランク王国の三分割によりバラバラに。その後、帝国としての継続性は途切れ、特に「ローマ皇帝」の称号も一時的に消滅します。つまり、カール大帝は“創始者”ではあっても“制度的な建国者”ではなかったんですね。
カールの帝国が崩れたのち、ドイツ王国を統一し、新たに「皇帝」を名乗ることで制度的な“神聖ローマ帝国”を築いたのがオットー1世(912 - 973)です。
オットー1世はザクセン朝の王として、バラバラだった東フランク王国(ドイツ)の諸侯たちを従え、国家のまとまりを回復。962年、教皇ヨハネス12世によって「ローマ皇帝」に再び戴冠されたことで、帝国の称号が正式に復活しました。
オットー1世は教会の組織力を国家運営に取り込むという、新しい仕組み「帝国教会制度」を整備。これによって皇帝と教会の結びつきが強まり、「神聖ローマ帝国」という名称にふさわしい宗教的権威と政治的秩序を両立させたのです。
カール大帝とオットー1世、どちらも建国者として語られますが、それぞれ意味が違うんです。
ローマの再興、キリスト教世界の統一、皇帝と教皇の結びつき──こうした「帝国のイメージ」を初めて形にしたのは、間違いなくカール大帝。精神的・象徴的な意味での建国者だといえるでしょう。
一方で、教皇による戴冠を受け、かつ皇帝制度を国家運営に定着させたのはオットー1世。神聖ローマ帝国が“国として機能”するようになったのはこの人からなんです。