神聖ローマ帝国・プロイセン・オーストリアの関係

神聖ローマ帝国・プロイセン・オーストリアの関係

神聖ローマ帝国内で、オーストリアは皇帝家として中心的存在だったが、プロイセンは領邦として力を急速に強めた。両者は帝国内の覇権を巡り競争し、18世紀後半には特にシュレジエンを巡る戦争で対立。最終的にプロイセンが北ドイツの主導権を握り、帝国内の二大勢力として複雑な関係を築いた。

神聖ローマ帝国・プロイセン・オーストリアのややこしい関係を整理

「ドイツの歴史って、神聖ローマ帝国、プロイセン、オーストリア…って似たような国がいっぱい出てきて混乱する!」──そんなふうに思ったことはありませんか?でも実はこの3つ、まったくの別物ではなく、密接につながっているけど、それぞれ立場が違うんです。今回は、この“ややこしい三者”の関係をすっきり整理してみましょう!



神聖ローマ帝国が「舞台」だった

まず大前提として、神聖ローマ帝国は“国”というよりヨーロッパ中部に広がる連合体でした。そこにプロイセンとオーストリアが、それぞれの「役者」として登場したわけです。


ゆるやかな連邦体制

神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)は、数百の領邦国家からなる巨大な集合体。皇帝が頂点にはいましたが、現実の政治は諸侯たちがバラバラに動いていたんです。


オーストリアはその“中心”だった

15世紀以降、神聖ローマ皇帝の座はほぼハプスブルク家が独占。その本拠地がオーストリアなので、「神聖ローマ帝国=オーストリア」みたいなイメージができあがったんですね。


プロイセンは端っこの新興勢力

プロイセンは最初、バルト海沿岸の辺境にあった小国。でも軍事力と行政力でどんどん頭角を現し、「帝国内の異端児」として台頭していきます。


オーストリアが帝国の“顔”だった

帝国の長い歴史のなかで、ハプスブルク家はただの一諸侯から、ヨーロッパ最大の王家へと成長しました。


ハプスブルクの皇帝世襲体制

1438年から神聖ローマ帝国が解体される1806年まで、ほぼずっと皇帝の座はオーストリアのハプスブルク家が握っていました。実質的にオーストリア帝国みたいなもんだったわけです。


オーストリアは多民族帝国

帝国内で皇帝を出していたとはいえ、オーストリア自身もボヘミア・ハンガリーなどを含む独自の帝国を形成していました。つまり「神聖ローマ皇帝=オーストリア皇帝」ではないけれど、実質的にはほぼ重なっていたんです。


神聖ローマ帝国が滅んだあとも残った

1806年に帝国が解体されたとき、フランツ2世(1768 - 1835)はオーストリア皇帝フランツ1世として「新しい帝国」を名乗り直しました。つまり帝国は終わっても、オーストリアの覇権は続いたんですね。


プロイセンが「反オーストリア」の旗手に

最初は脇役だったプロイセンが、やがてヨーロッパ全体を揺るがす主役に躍り出ます。


フリードリヒ大王の登場

18世紀、フリードリヒ2世(1712 - 1786)が即位すると、プロイセンは急成長。特にオーストリアからシュレージエン地方を奪ったことで「オーストリア=皇帝=正統」の構図に真っ向から挑んだのです。


帝国内での覇権争い

帝国の枠内でも、オーストリア派とプロイセン派で大名や都市が分かれはじめ、「ドイツを誰がまとめるか」が大きなテーマになっていきます。


神聖ローマ帝国の外に新しい秩序をつくろうとした

ナポレオン戦争後の「ドイツ連邦」では、プロイセンもメンバー入りしていたけれど、プロイセン主導の新国家構想(小ドイツ主義)が台頭。1866年にはついにオーストリアと直接戦い(普墺戦争)、それを制したことで「オーストリア抜きのドイツ帝国」が現実味を帯びてきます。


「神聖ローマ帝国・プロイセン・オーストリアの関係」まとめ
  • 神聖ローマ帝国はゆるやかな連合体だった:オーストリアが皇帝を出し、中心的な立場を担っていた。
  • オーストリアは帝国と並行して自前の国家も形成していた:ハプスブルク帝国としての要素も強かった。
  • プロイセンは帝国内の新興勢力として、オーストリアと対立した:やがてドイツ統一をめぐる主役へと躍り出た。