
神聖ローマ帝国、プロイセン、オーストリア―― 世界史でこの3つが並ぶと、なんか似てるし場所もかぶってて、正直ごちゃごちゃしてきませんか?
「プロイセンはドイツ?でもオーストリアもドイツ語圏?神聖ローマ帝国って何者?」みたいな、混乱の元になる三大勢力です。
でも実はこの3つの関係をちゃんと整理すると、ドイツ統一、ナポレオン戦争、第一次世界大戦――
つまり近代ヨーロッパの大激動がすっきり見えてくるんです!
この記事では、神聖ローマ帝国・プロイセン・オーストリアの立場と関係を、できるだけわかりやすく解説していきます!
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見た目が似てるけど、それぞれまったく立場が違うんです。ざっくり分けるとこんな感じ。
名称 | 実態 | 中心地域 |
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神聖ローマ帝国 | ドイツ中心の“ゆる〜い連邦” | ドイツ南部・中部・オーストリア |
オーストリア | ハプスブルク家の“本拠地”国家 | 現在のオーストリア、チェコなど |
プロイセン | 北東ドイツの“超効率的な軍事国家” | ブランデンブルク、ケーニヒスベルク |
それぞれ成り立ちもスタイルもバラバラ。
でも全部“ドイツ語圏”でかぶってるのがややこしさの元なんです。
実はこの3つ、もともと全部“帝国内の構成勢力”だったんです。
ハプスブルク家は15世紀以降、神聖ローマ皇帝の地位をほぼ独占。
つまり、オーストリアは帝国の“中心”的な存在でした。
もともと小さな領邦だったプロイセンは、17世紀以降にぐんぐん台頭してきた帝国内の“のし上がり勢力”。
でも帝国内での地位は低め。むしろ帝国の枠をはみ出してパワーアップしていきます。
この時代になると、オーストリアとプロイセンは同じ“ドイツ語世界”をめぐる覇権争いに突入します。
これがオーストリアvsプロイセンのライバル関係の始まりなんです。
オーストリアは皇帝の冠を持っていたけど、プロイセンは近代的な軍隊と官僚制度で実力で帝国に挑戦していきました。
1806年、ナポレオンの登場によって神聖ローマ帝国は解体されてしまいます。
つまり、ここからドイツの主導権争い=オーストリア vs プロイセンの対決に完全シフトするんです。
19世紀後半、プロイセンとオーストリアの対立は「どっちがドイツをまとめるのか?」という問題に集約されます。
このイデオロギー対立が、やがて普墺戦争(1866年)に発展。
そして勝利したプロイセンがオーストリアを排除してドイツ帝国(1871年)を建国するんです。
神聖ローマ帝国、オーストリア、プロイセンの関係は、「1つの大きな世界から、どう“主導権”を取って独立するか」というドラマでした。
オーストリアが帝国の“名誉”を、プロイセンが“実力”を、それぞれ握っていたからこそ、この対立はドイツ統一と近代ヨーロッパの鍵になっていったんです。