

「ドイツの歴史って、神聖ローマ帝国、プロイセン、オーストリア…って似たような国がいっぱい出てきて混乱する!」──そんなふうに思ったことはありませんか?でも実はこの3つ、まったくの別物ではなく、密接につながっているけど、それぞれ立場が違うんです。今回は、この“ややこしい三者”の関係をすっきり整理してみましょう!
まず大前提として、神聖ローマ帝国は“国”というよりヨーロッパ中部に広がる連合体でした。そこにプロイセンとオーストリアが、それぞれの「役者」として登場したわけです。
神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)は、数百の領邦国家からなる巨大な集合体。皇帝が頂点にはいましたが、現実の政治は諸侯たちがバラバラに動いていたんです。
15世紀以降、神聖ローマ皇帝の座はほぼハプスブルク家が独占。その本拠地がオーストリアなので、「神聖ローマ帝国=オーストリア」みたいなイメージができあがったんですね。
プロイセンは最初、バルト海沿岸の辺境にあった小国。でも軍事力と行政力でどんどん頭角を現し、「帝国内の異端児」として台頭していきます。
帝国の長い歴史のなかで、ハプスブルク家はただの一諸侯から、ヨーロッパ最大の王家へと成長しました。
1438年から神聖ローマ帝国が解体される1806年まで、ほぼずっと皇帝の座はオーストリアのハプスブルク家が握っていました。実質的にオーストリア帝国みたいなもんだったわけです。
帝国内で皇帝を出していたとはいえ、オーストリア自身もボヘミア・ハンガリーなどを含む独自の帝国を形成していました。つまり「神聖ローマ皇帝=オーストリア皇帝」ではないけれど、実質的にはほぼ重なっていたんです。
1806年に帝国が解体されたとき、フランツ2世(1768 - 1835)はオーストリア皇帝フランツ1世として「新しい帝国」を名乗り直しました。つまり帝国は終わっても、オーストリアの覇権は続いたんですね。
最初は脇役だったプロイセンが、やがてヨーロッパ全体を揺るがす主役に躍り出ます。
18世紀、フリードリヒ2世(1712 - 1786)が即位すると、プロイセンは急成長。特にオーストリアからシュレージエン地方を奪ったことで「オーストリア=皇帝=正統」の構図に真っ向から挑んだのです。
帝国の枠内でも、オーストリア派とプロイセン派で大名や都市が分かれはじめ、「ドイツを誰がまとめるか」が大きなテーマになっていきます。
ナポレオン戦争後の「ドイツ連邦」では、プロイセンもメンバー入りしていたけれど、プロイセン主導の新国家構想(小ドイツ主義)が台頭。1866年にはついにオーストリアと直接戦い(普墺戦争)、それを制したことで「オーストリア抜きのドイツ帝国」が現実味を帯びてきます。