
神聖ローマ帝国って言うと、多くの人が思い浮かべるのはオットー1世から続く“ドイツ中心の帝国”ですが、じつはその前段階、つまりカロリング朝時代にも「ローマ皇帝」を名乗った王がいたんです。
カール大帝(シャルルマーニュ)です。
ではこのカロリング朝の“ローマ帝国”と、のちの“神聖ローマ帝国”はどう違うのか? 今回は、カロリング朝時代の「神聖ローマ的な帝国」の正体を見ていきましょう!
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まずはカロリング朝のローマ皇帝とはいったいどういう存在だったのかを見ていきましょう。
のちの神聖ローマ帝国とよく似てる部分もあれば、まったく違う方向性もあるんです。
800年、カール大帝はローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の冠を受けます。
これは「西ローマ帝国滅亡(476年)」から実に300年以上のブランクを経て、ローマ皇帝の称号が復活した瞬間でした。
当時のフランク王国は西ヨーロッパ最強の国家だったので、教皇が「この人ならキリスト教世界の守護者にふさわしい」と考えたわけですね。
ここで重要なのは、カール大帝やその後継者たちは「神聖ローマ皇帝」と名乗っていたわけではないということ。
彼らはあくまで「ローマ皇帝」を自称していて、「神聖(Sacrum)」や「ドイツ的要素(Nationis Germanicae)」がつくのはずっと後の話なんです。
カロリング朝と神聖ローマ帝国、どちらもローマの後継を自任していたけど、実態はけっこう違っていました。
ここでは具体的な違いを2つのポイントから見ていきましょう。
カロリング帝国はカール大帝の個人的カリスマと中央集権で成り立っていた帝国でした。
それに対して神聖ローマ帝国は、たくさんの領邦がバラバラに存在するゆる〜い連邦のような構造。
つまり、同じ「ローマ皇帝」を名乗っていても、実際の統治スタイルは正反対だったんです。
カロリング朝では、皇帝位は基本的に世襲でした。
しかし、神聖ローマ帝国では選帝侯による選挙制が採用されていて、誰が皇帝になるかは常に“選ばれなきゃいけない”という制度上の違いがありました。
じゃあ、なぜそのまま“カロリングのローマ帝国”が「神聖ローマ帝国」として続かなかったのか?
そこには王朝の継承問題と地理的な要因が絡んでいたんです。
カール大帝の死後、彼の孫たちが帝国を3分割したのがヴェルダン条約。
これによりフランス・イタリア・ドイツにあたる地域に分かれてしまい、「1人の皇帝がローマ世界を統べる」という構想はバラバラになってしまったんですね。
その後、東フランク王国を中心にオットー1世が962年に再び皇帝位を獲得します。
ここからが、私たちがよく知っている「神聖ローマ帝国」としての実質的スタートになるわけです。
カロリング朝時代にも“ローマ皇帝”は存在しましたが、それはあくまで「カール大帝の時代に一時的に復活したローマ的帝国」だったんです。
でもその理想は、のちの神聖ローマ帝国に引き継がれ、「秩序と普遍の帝国をもう一度」という夢として長く残り続けることになるんですね。