
神聖ローマ帝国軍って聞くと、「皇帝の直轄軍かな?」と思いがちなんですが、実はちょっと違うんです。
この帝国の軍隊――つまり帝国軍(Reichsarmee)は、各地の領邦や都市が「持ち寄り」で編成する、超・分権的なシステムだったんですよ。
それでも、1422年から1806年の帝国崩壊まで、戦争のたびに招集され、時代とともに制度も少しずつ整えられていきました。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国軍の創設から解体までの歴史を、構造や特徴、戦争との関わりとともに見ていきましょう!
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常備軍なんてものはなかった中世の帝国。
帝国軍の始まりは、実はある危機への対処からだったんです。
1422年、帝国議会(帝国会議)は、異端と見なされたフス派への対抗手段として、各地の領邦から兵を出させる形で帝国軍を組織しました。
この「兵を持ち寄る方式」が、後の帝国軍の基本スタイルになります。
ここで注意したいのが、帝国軍(Reichsarmee)と皇帝軍(Kaiserliche Armee)は別モノということ。
帝国軍はあくまで帝国議会の合意で招集される軍隊であり、皇帝の個人的な軍隊ではありませんでした。
この時点で、すでに「軍事の主導権が皇帝にない」という、帝国の特殊さがにじみ出ています。
16世紀に入ると、軍事力を整備しようという動きが本格化していきます。
でも相変わらず、“持ち寄り方式”は変わりません。
1521年のヴォルムスの帝国議会では、帝国軍の兵力を歩兵20,063名・騎兵4,202名と定め、これを後に2万歩兵・4千騎兵へと簡略化しました。
そしてその維持費を一か月分に換算したのが、有名な「ローマ月(Römermonat)」です。
誰がどれだけ兵を出すか、あるいはお金を出すかを記録したのが、帝国登録簿(Reichsmatrikel)。
最初の登録簿は1422年に作られ、以降は帝国議会で調整されながら使われていきました。
17世紀後半、帝国はようやく帝国軍の定数・編成・責任区分を明文化する段階に入ります。
1681年の帝国防衛令(Reichsdefensionalordnung)によって、帝国軍の構成が正式に決定されました。
標準兵力(シンプロム)は、歩兵28,000人+騎兵12,000人(うち竜騎兵2,000)の計40,000名。
必要に応じて2倍(ドゥプルム)、3倍(トリプルム)と拡張できることも定められていました。
この兵力は帝国クライス(帝国諸地区)ごとに分担され、以下のような内訳で構成されていました:
帝国クライス | 騎兵 | 歩兵 |
---|---|---|
オーストリア・クライス | 2,522 | 5,507 |
ブルゴーニュ・クライス | 1,321 | 2,708 |
選帝侯ライン・クライス | 600 | 2,707 |
フランケン・クライス | 980 | 1,902 |
バイエルン・クライス | 800 | 1,494 |
シュヴァーベン・クライス | 1,321 | 2,707 |
上部ライン・クライス | 491 | 2,853 |
下ライン=ヴェストファーレン・クライス | 1,321 | 2,708 |
上ザクセン・クライス | 1,322 | 2,707 |
下ザクセン・クライス | 1,322 | 2,707 |
合計 | 12,000 | 28,000 |
帝国軍はその後、数多くの戦争に出動しましたが、実際の運用では限界も多かったんです。
帝国軍が動員されたのは、以下のような戦争でした:
ただし有名な三十年戦争(1618–1648)には帝国軍は参加しておらず、皇帝個人の軍隊(皇帝軍)が戦ったという点は意外と見落とされがちです。
帝国軍の兵はあくまで諸侯や都市が出したもので、皇帝よりも地元の指導者に忠誠を誓うことが多かったです。
そのため、指揮統制は常にバラバラで、行動も足並みが揃わないことがしばしばありました。
18世紀末になると、フランス革命とナポレオンの登場によって、帝国の軍事体制も時代遅れになっていきます。
1804年、ハプスブルク家がオーストリア皇帝を名乗ると、帝国軍の中心は事実上オーストリア=ハプスブルクの軍隊に引き継がれていきました。
ナポレオンがライン同盟を結成し、帝国の構成国がごっそり離脱したことで、神聖ローマ帝国は正式に解体。
帝国軍もこれにともない完全に消滅しました。
神聖ローマ帝国軍は、最初から最後まで「皇帝の軍」ではなく、“みんなで出し合って戦う合同軍”でした。
指揮系統も統一感も弱かったけど、それでも時代の要請に応じて少しずつ制度化されていったという進化の歴史があるんです。
そのバラバラさこそが、まさに帝国の縮図だったのかもしれませんね。