
「地方分権」―― 今でこそ地方自治体制は世界中の国で、程度の差はあれど、当たり前に行われていますが、神聖ローマ帝国って、むしろ最初から最後まで“超・地方分権型国家”だったんですよ。
この記事では、そんな神聖ローマ帝国を例にしながら、「地方分権のメリットとデメリット」を、歴史のリアルにそって分かりやすく見ていきます!
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地方分権とは、政治や行政の権限を中央政府ではなく地方の自治体や領主などに分けて持たせる仕組みのことです。
中央政府が全国一律の政策を出す代わりに、地方がその土地に合った法律・税制・軍事・教育などを独自に運営します。
神聖ローマ帝国の場合は、皇帝がいても、実際の政治は諸侯や都市が担当していたわけです。
帝国内には、選帝侯、公爵、伯爵、司教、公会、自由都市、騎士領など、めちゃくちゃたくさんの「ほぼ独立した地方権力」が存在していました。
彼らは皇帝の命令よりも自分の土地の事情を優先するのが当たり前だったんです。
バラバラだったとはいえ、地方分権にはちゃんとプラスの面もありました。
中央政府が出す一律の命令より、地元の実情に詳しい人が決める方がうまくいくことも多いんです。
たとえば農業中心の地域と商業都市では必要な政策が全然違いますし、それを自分で調整できる柔軟性があるのが地方分権の強みです。
各地の領主や都市が自分で法律を作って税を集めていたので、人々の間に「自分たちで社会を運営する」という意識が根づいていました。
とくに自由都市などでは、初期の“市民自治”の土壌が育まれていきます。
戦争や災害が起きたとき、中央の命令を待たなくても、地元で即判断して動けるというのは大きなメリットです。
とくに中世のように通信手段が発達していない時代には、この即応性がとても重要でした。
自由にやれるぶん、地方分権は統一の難しさや調整の困難さを抱えることにもなります。
ある地域では税率が低くて豊かに見えても、隣は重税で困窮――
こういう格差が拡大しやすいのが地方分権の落とし穴です。
神聖ローマ帝国でも、裕福な自由都市と貧しい農村領邦で発展スピードがまったく違ったんです。
諸侯が勝手に外交したり、皇帝の号令に従わなかったりするせいで、帝国全体としての対外政策の統一感がない。
これが三十年戦争などで“連携不足”による敗北を招く要因にもなりました。
地方が力を持ちすぎると、中央政府――この場合は皇帝――が何もできなくなります。
皇帝が「兵を出せ」と言っても、「うちは今ノー残業デーなんで…」みたいなノリで普通に断られるような状態。
これでは国としての意思決定がマヒしてしまいます。
結果的に、神聖ローマ帝国は地方の自由と引き換えに“国家としてのまとまり”を失っていったとも言えます。
領邦はみんなバラバラのルール、バラバラの軍隊、バラバラの宗教。
帝国=連合体に近く、現代でいえばEUにちょっと似た構造でした。
これが“神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもない”って言われる理由でもあります。
ナポレオンの侵攻によって、1806年に神聖ローマ帝国はあっけなく解体されます。
結局、連携しきれない地方分権の限界が見えてしまった瞬間でもありました。
地方分権には地元の強みを生かす柔軟性というメリットがある一方で、国家としての統一行動が難しくなるというデメリットもあります。
神聖ローマ帝国は、そんな地方分権の“行きすぎた例”とも言える存在。
でもそのバラバラの中で続いた千年の歴史こそが、逆にこの帝国の不思議な魅力なんですよ。