

ヨーロッパ中世を代表する“千年帝国”神聖ローマ帝国──その名前からすると、まるでラテン語が隅々まで浸透したローマ的な言語空間を思い浮かべがち。でも実際のところ、この帝国の言語事情はラテン語一色どころか、かなりごちゃごちゃしていたんです。
今回の記事では、神聖ローマ帝国の公用語としてのラテン語の役割から始まり、実際に使われていた言語の多様性、そして帝国の構造にともなう言語政策の複雑さについて、わかりやすくかみ砕いて解説します。
まずは多くの人が抱いている「帝国=ラテン語圏」というイメージから整理していきましょう。
ラテン語は中世ヨーロッパ世界で共通語的な地位にありました。だからこそ、帝国の法令文書や条約、外交交渉、大学の講義なんかは基本的にラテン語で書かれていたんです。とくに皇帝が発する公式な勅令(例えば金印勅書など)は、ラテン語がスタンダード。
つまり、帝国全体における“儀式的・形式的”な言語だったわけですね。
とはいえ、当時の一般市民どころか地方の騎士や貴族ですら、ラテン語をすらすら読める人は少数派。文書にラテン語を使うのは“権威”のためで、実務レベルでは別の言語が使われていたんです。
つまりラテン語は“名目上”の共通語であって、実生活の言語ではなかったわけです。
中世後期から近世にかけて、帝国の政治の中心はどんどんドイツ語化していきました。
15世紀以降、とくにハプスブルク家の時代になると、帝国の文書の多くがドイツ語で書かれるようになります。たとえば帝国議会での布告や、皇帝の命令状など。ラテン語からドイツ語への移行は、行政の効率化と実用化の一環だったとも言えます。
そして1521年には、ドイツ語が帝国の“もう一つの公用語”として位置づけられるように。
でもここでややこしいのが、当時のドイツ語っていまのような共通語(標準ドイツ語)ではなかったという点。地域ごとに方言の差が激しく、文書でもバイエルン系、ザクセン系、ライン系などの“ローカル言語”が混在していたんです。
このバラつきをある程度統一したのが、宗教改革で登場したマルティン・ルターの聖書翻訳(1534年)だったわけですね。
帝国内にはドイツ語以外にも、たくさんの言語が“普通に”話されていました。
たとえばボヘミア(今のチェコ)では、チェコ語(西スラヴ語系)が日常の言葉でした。13~14世紀にはチェコ語で法律文書が書かれることもあり、民衆にとってはラテン語もドイツ語も「よそ者の言葉」だったんですね。
とくにヤン・フス(1370頃 - 1415)などが活躍したフス派運動では、チェコ語での説教や宗教活動が重視されました。
帝国の南には北イタリア、西にはアルザスやロレーヌなどが含まれており、そこではイタリア語やフランス語が話されていました。帝国の支配下にありながらも、文化や言語はあくまで“ローカル色”が強かったんです。
つまり神聖ローマ帝国は多言語帝国だったということになります。
じゃあ、どうしてもっと言語を統一しようとしなかったの? その理由は、帝国の政治構造そのものにありました。
神聖ローマ帝国は、何百もの諸侯や都市がほぼ独立状態で存在する「ゆるやかな連邦」。中央から言語統一を命じる力なんて、皇帝にすらなかったんです。それぞれの地域が自分たちの慣習に合った言語を使っていたから、バベルの塔状態になるのはむしろ当然。
それを無理に一本化しようとすると、むしろ反発を招いたかもしれません。
皮肉にも、この言語の多様性こそが、帝国の安定に寄与していた面もあります。無理にひとつの言語に縛られなかったからこそ、それぞれが“自分の場所”として帝国に所属し続けられたわけですね。
このあたり、現代EUの“多言語主義”とちょっと似ているかもしれません。