
神聖ローマ帝国というと、ドイツの歴史の一部として語られることが多いかもしれません。でも実はこの帝国、初期から中世を通じてずーっとこだわり続けていた場所があるんです。それがイタリア。どうしてドイツを拠点にした帝国が、はるばるアルプスを越えてまでイタリア政策に執着したのか?その理由は、単なる領土欲じゃなく、もっと深くて歴史的な意味があったんです。
神聖ローマ帝国は“ローマ”の名を冠していた以上、その「正統性」を証明する必要がありました。
皇帝になるためには、単なる選出や軍事力だけでなく、「神に選ばれた存在である」という宗教的・歴史的根拠が必要とされました。そしてその根拠こそが「ローマ」の名前。つまり、ローマ帝国の後継者を名乗る以上、イタリア(とりわけローマ)を抑えていなければ名ばかりになってしまうわけです。
たとえば、初代皇帝オットー1世(912 - 973)は、教皇から帝冠を授かるためにローマへ赴きました。以後、中世の皇帝たちは「神の代理人たる教皇から正式に戴冠される」ことを重視し、その舞台がイタリアだったのです。
イタリアはただの象徴的な土地ではなく、帝国にとって現実的な価値も持っていました。
中世のイタリア諸都市──ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどは、商業と金融で大きな富を生み出していました。帝国がこの豊かな地域を掌握することで経済的な後ろ盾を得ることができたのです。
北から南に抜けるアルプス越えの街道は、ドイツとイタリアを結ぶ生命線。ここを抑えることは、地政学的にも非常に重要だったわけですね。
神聖ローマ帝国は中央集権的な国家ではなく、皇帝の財源は自領に限られていました。だからこそ、豊かなイタリア諸侯からの貢納や税は魅力的だったんです。
宗教の中心地イタリアには、当然ながらローマ教皇もいました。皇帝と教皇、この二人の関係は常に火花が散っていたんです。
11世紀に勃発した叙任権闘争では、皇帝が自ら司教を任命できる権限を主張したのに対し、教皇はこれを否定。この対立の中心もまたイタリアで、皇帝がイタリアに介入する正当性を争う場でもありました。
中世ヨーロッパでは、宗教が政治を支配していました。つまり、イタリアを押さえるということは、政治権力だけでなく宗教権力にも食い込むということだったのです。
教皇も皇帝も「ローマの主」を自称していたため、ローマという都市そのものが両者のシンボル的な“奪い合い”の舞台になっていたわけです。