
神聖ローマ帝国の歴史を見てると、しょっちゅう出てくるのが「皇帝、またイタリア行ってるやん問題」。
山越えてローマまで行って、教皇とバチバチやったり、ロンバルディアの都市と戦ったり、正直ドイツの統治そっちのけじゃない?って思っちゃいますよね。
でもそこには、帝国の“理想”と“現実”のねじれが深〜く関係してたんです。
この記事では、なぜ神聖ローマ帝国がイタリア政策に執着したのか、そしてそれが抱えていた大きな問題点を分かりやすく整理していきます!
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一見すると「そんなに重要なの?」と思えるイタリアですが、神聖ローマ帝国にとっては“支配の正統性を示す舞台”そのものだったんです。
神聖ローマ帝国の“ローマ”は、あの古代ローマ帝国から正統な後継者であるというアピール。
そのためには、「ローマで戴冠」して「ローマ(教皇)に認められる」ことが不可欠だったんですね。
だからこそ、皇帝はわざわざアルプスを越えてイタリアに行き、ローマ教皇から戴冠を受ける儀式を重視していました。
ロンバルディアやトスカーナといった北イタリアの都市は、中世ヨーロッパの中でも経済・人口・文化の中心地。
そこを“自分の支配下”に収めれば、名実ともに皇帝の威信が高まるという思惑もあったんです。
理想は高いけれど、現実はなかなか思い通りにはいきませんでした。
むしろこのイタリアへの執着が、帝国内に深刻な問題を引き起こしていくことになります。
皇帝たちがイタリア政策に熱を上げている間、ドイツ内では諸侯たちがどんどん自立。
とくにホーエンシュタウフェン朝(フリードリヒ1世、2世など)の時代には、ドイツの支配がかなり放置気味になり、地方の力が強まる結果に。
北イタリアの都市(ミラノ、ヴェローナ、フィレンツェなど)は強い自治権と経済力を持っていて、皇帝の支配に従うどころか、ロンバルディア同盟を結成して抵抗するほどの結束力を持っていました。
結果、何度も軍事衝突が起こり、イタリア遠征=体力と金の浪費になってしまうことも。
イタリア政策と切っても切れないのが皇帝 vs 教皇の対立構造。
とくに「叙任権闘争」以降、皇帝がイタリアに関わるたびに教皇が妨害・破門を繰り返し、最終的には皇帝が宗教的な正統性を失うリスクまで生まれてしまいました。
こんなにリスクとコストが大きいのに、皇帝たちがイタリアを諦めなかった理由――
それは“皇帝とはこうあるべき”という中世的な価値観があったからなんです。
中世の皇帝像は、単なるドイツの王ではなく、
この3つの冠=三重の正統性を持つ“普遍的支配者”が理想とされていました。
イタリア政策はその理想を実現するための“不可欠な儀式”でもあったんです。
中世のヨーロッパでは、古代ローマの秩序をもう一度取り戻すという思想が根強く、神聖ローマ皇帝はその“再興者”としての役割を自認していました。
つまり、イタリアは単なる領土じゃなくて“精神的な使命”の象徴でもあったわけです。
神聖ローマ帝国のイタリア政策は、「理想の皇帝像」と「現実の分権政治」の板挟みでした。
イタリアでの成功は皇帝の名誉につながるけど、ドイツの足元はガタガタになる――
このジレンマこそが、神聖ローマ帝国が最後まで“まとまりきれなかった理由”のひとつなんです。