
神聖ローマ帝国の中でも、短命ながら強烈なインパクトを残した王朝がルクセンブルク朝です。フランスとドイツの間に挟まれた小さな伯爵家に過ぎなかった一族が、突如として皇帝位を握り、中欧の覇者として帝国を揺るがす──そんな劇的な躍進と、その後の儚い終焉には、まさに「中世の運命劇」のようなドラマが詰まっているんです。
この記事では、そんなルクセンブルク朝の成立から断絶、ハプスブルク家との関係、そして現代のルクセンブルク大公家とのつながりまで、わかりやすくかみ砕いて解説していきます。
そもそもルクセンブルク朝って何者? という人も多いと思いますが、彼らは中世の初めにはルクセンブルク伯としてライン川中流域に小さな領地を持っていた一族でした。
1291年にハプスブルク家のルドルフ1世が死去し、神聖ローマ帝国では皇帝位の継承を巡る混乱が起こります。この状況で勢力を伸ばしたのが、ルクセンブルク伯家の当主ハインリヒ7世。彼は1312年に皇帝として戴冠し、ここにルクセンブルク朝が始まりました。
ハインリヒ7世の孫にあたるカール4世(在位:1346~1378)は、まさにルクセンブルク朝の黄金時代を築いた人物。彼は神聖ローマ皇帝であると同時に、ボヘミア王としてプラハを文化の中心地に変貌させ、1356年には皇帝選出のルールを定めた金印勅書を制定しました。
この勅書は、皇帝選出の手続き(選帝侯制度)を正式化した、帝国史のターニングポイントとも言える重要文書です。
しかし、カール4世の息子たちは相次いで早逝。とくにジギスムントは皇帝位に就いたものの、その死(1437年)をもって男系継承が途絶し、ルクセンブルク家の帝位は終焉を迎えます。
つまり、ハインリヒ7世からジギスムントまで4代・約125年間が、ルクセンブルク朝としての寿命だったというわけです。
ルクセンブルク朝が断絶したあと、神聖ローマ皇帝位を引き継ぐのは──あのハプスブルク家。ではこのふたつの家系にはどんなつながりがあったのでしょうか?
最後のルクセンブルク朝皇帝ジギスムントには、男子の後継がいませんでした。そこで彼は娘のエリーザベトをオーストリア大公アルブレヒト5世(のちの神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世)に嫁がせます。
つまり、ルクセンブルク家の血統はハプスブルク家に引き継がれる形で継続されたわけです。
ジギスムントの死後、アルブレヒトが帝位を継いだことで、ハプスブルク家による皇帝時代がスタート。以降、1806年までハプスブルク家は帝位をほぼ独占するようになります。
こうして、ルクセンブルク朝は直接の男系としては断絶したものの、その血統は“皇帝の血”として生き続けたんですね。
ザーリアー朝→シュタウフェン朝→ハプスブルク朝という流れの中で、一度だけ外部から差し込まれた光のような存在がルクセンブルク朝。まさに「中継ぎの王朝」だったとも言えるし、逆にハプスブルク家に“正統性のバトン”を渡した重要な橋渡し役でもあったわけです。
「ルクセンブルク朝ってもう絶えたんじゃ?」──と思われがちですが、じつはこの家名、今でも存続しています。しかも現役で国家元首を出しているんです。
ルクセンブルク家という家名は、断絶後も地名を由来とする家系としてさまざまな形で受け継がれ、19世紀にはナッサウ=ヴァイルブルク家の支流が「ルクセンブルク大公家」を名乗るようになります。
この家系が今も続いており、現在のルクセンブルク大公アンリはその直系にあたります。
ルクセンブルクはヨーロッパでも数少ない立憲君主制国家のひとつであり、大公は形式的な元首ながら今も王族としての格式を保っています。
現在のルクセンブルク大公家は、直接的には中世の神聖ローマ皇帝とは異なる家系ながら、その国名と家名の重みは、まさに帝国時代の名残を現代に伝えているといえるでしょう。