
中世ヨーロッパに突如として襲来したモンゴル帝国。ユーラシア大陸を東から西へと突き進むその軍勢は、ロシア諸侯を踏み潰し、ハンガリーやポーランドにまで迫りました──じゃあ、神聖ローマ帝国には?実際に攻め込まれた?それとも、かすった程度?今回は、この2つの帝国の「あやうい接触」と、その影響を掘り下げてみます。
「神聖ローマ帝国vsモンゴル帝国」の直接対決はありませんでしたが、帝国のすぐ隣までモンゴル軍は来ていたんです。
ハンガリーで起きたこの戦いは、モンゴル帝国がヨーロッパ中部に達したことを示す象徴的な戦い。ハンガリー王ベーラ4世の軍がバトゥ率いるモンゴル軍に完敗し、多くの貴族が討たれました。
現在のポーランドで、シレジア公やテンプル騎士団など西欧諸侯の連合軍が迎撃しましたが、こちらも敗北。つまり、モンゴル軍は神聖ローマ帝国の東の境界線にまで迫っていたわけです。
とくにボヘミア(現在のチェコ)は神聖ローマ帝国領内にあって、モンゴル軍の侵攻ルート上にありました。ボヘミア王ヴァーツラフ1世は急ぎ軍を動員し、ギリギリのところで回避に成功したとされます。
帝国は幸運にも“本格的な襲来”を受けませんでしたが、それにはいくつかの背景があります。
1241年末、モンゴル皇帝オゴタイ(1186 - 1241)が死去すると、バトゥら遠征軍は選挙(クリルタイ)に出席するため帰還。このタイミングが、ヨーロッパにとって最大の“助け船”となりました。
モンゴル軍の関心は、ステップ地帯の支配や通商路の確保が主目的だったとされ、アルプスやライン以西は戦略対象外と判断された可能性が高いです。
帝国内は中小の領邦が多く、地形的にも山がち。これはモンゴルのような機動力重視の軍隊には相性が悪かったとも言われています。
実は“戦うだけ”じゃないのが中世のリアル。モンゴルと神聖ローマ帝国、じつは文書のやりとりまでしてたんです。
1245年、ローマ教皇インノケンティウス4世は、フランチェスコ会士ジョヴァンニ・ダ・プラノ・カルピニをモンゴルに派遣。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1194 - 1250)もこれに協力し、共同で使者を送り出しました。
当時の皇帝フリードリヒ2世は、ヨーロッパの他の王たちと比べてやや独自路線。彼は十字軍の和平交渉でも知られる外交巧者で、モンゴルとの戦闘を避け、情報収集に徹していたようです。
モンゴル側からも、「服従せよ」という趣旨の書簡が送られていた記録が残っています。つまり、“我々はお前たちの存在を把握しているぞ”という無言の圧力だったわけです。