
モンゴル帝国と神聖ローマ帝国―― このふたつ、時代は重なるのに「直接の戦争はなかったよね?」と思うかもしれません。たしかに両者は直接衝突はしていません。
でも、モンゴル帝国の驚異的な拡大は、神聖ローマ帝国を含む西ヨーロッパ全体の外交・軍事・宗教政策に強烈な影響を与えました。
この記事では、「モンゴルの進出が神聖ローマ帝国にどんなインパクトをもたらしたのか」を中心に解説していきます!
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13世紀前半、チンギス・ハンの孫バトゥを中心とするモンゴル軍がヨーロッパに侵攻を開始。
その破壊力とスピード感に、ヨーロッパの諸国は本気で「世界の終わりが来た」と思うほど衝撃を受けたんです。
神聖ローマ帝国の東の隣、ハンガリー王国がモンゴル軍に大敗。
このとき、ハンガリーだけでなく、ポーランドやボヘミアも攻撃対象となり、神聖ローマ帝国の国境が“すぐそこ”まで危機にさらされていたんです。
1242年、モンゴル軍は突然撤退します。理由は、オゴタイ・ハンの死去による本国への召還とされます。
でもこの“まさかの幸運”がなければ、神聖ローマ帝国も直接攻撃を受けていた可能性が高かったんです。
モンゴルの脅威が現実のものとなったことで、神聖ローマ帝国の対外政策は一時的に東方重視へとシフトします。
第六回十字軍でも有名なフリードリヒ2世は、モンゴルに対して情報収集と接触を試みました。
彼はローマ教皇と対立していたため、「反教皇勢力」としてモンゴルと連携できないかすら考えていた節もあります。
モンゴル軍の動きをめぐっては、教皇インノケンティウス4世も使節団を派遣しましたが、神聖ローマ皇帝も自前の情報網で対応を進めており、一種の“情報戦・外交戦”が起こっていたとも言えるんです。
モンゴルの侵攻は、ドイツ諸侯や騎士団の東方への拡張政策にも少なからず影響を与えました。
東欧で活動していたドイツ騎士団は、モンゴルの脅威に直面して
自衛のための要塞建設や軍事力強化を急速に進めるようになります。
それは後の東方植民(Ostsiedlung)の安全保障基盤にもなっていきました。
モンゴル軍が引いたあと、荒廃した東欧の土地に目をつけたドイツ人移民や騎士団が進出。
でも同時に、「また来るかもしれない」という恐怖の記憶もずっと残り続けました。
モンゴルの登場は、神聖ローマ帝国の宗教観や世界観にもショックを与えました。
キリスト教世界では、モンゴル帝国を終末論的な“罰”や“神の試練”と捉える声もありました。
とくに1240年代の危機以降、神聖ローマ帝国内では悔い改めと宗教的緊張が高まり、民衆のあいだでも“祈りでモンゴルを防げるか”という噂が広まるほどでした。
逆に一部では、モンゴルを“東方のキリスト教勢力”だと期待する声も。
伝説のキリスト教王「プレスタージョン」が東から現れるという話と混ざって、モンゴル=味方説も囁かれるようになるという、情報混乱の時代でもありました。
モンゴル帝国の拡大は、神聖ローマ帝国に直接の戦争はもたらさなかったけれど、外交、軍事、宗教、そして“世界の見え方”にじわじわ効いてくるインパクトを与えました。
神聖ローマ帝国の外で起きたことなのに、帝国内の緊張と不安を一気に高めた――
それが、モンゴルの恐怖とその歴史的余波だったんです。