神聖ローマ帝国と東フランク王国の違いとは?

神聖ローマ帝国東フランク王国、このふたつって歴史の教科書だとなんとな〜く連続して登場してきますよね。
だから「名前が変わっただけで中身は一緒?」と思いがちなんですが、実はこのふたつ、“成り立ち”も“あり方”もけっこう違うんです。
この記事では、神聖ローマ帝国と東フランク王国がどんな風に関係していて、何が違ったのかを分かりやすく比べてみましょう!

 

 

そもそも東フランク王国ってどんな国?

この国は、あのカール大帝が築いたフランク王国が分裂して生まれた“東側のかけら”です。
その後、ここが歴史の流れの中で神聖ローマ帝国に変わっていくわけですが、そこには重要なステップがあるんです。

 

出発点は「フランク王国の東半分」

カール大帝の孫たちが王国を三分割したのが843年のヴェルダン条約
このとき、ルートヴィヒ2世が相続したのが東フランク王国です。
つまり、東フランク王国はあくまでフランク帝国の一部だったというのがポイント。

 

王がいても皇帝じゃない

東フランク王国の支配者たちは「王」であって、「皇帝」の冠はまだありませんでした。
西フランク(のちのフランス)とは別の方向に進みつつ、この東フランクの王国がやがて「ローマ皇帝の冠」を手に入れることで神聖ローマ帝国になっていくんです。

 

神聖ローマ帝国になるってどういうこと?

東フランク王国が「変身」したのが神聖ローマ帝国
でもこれって、ただの改名じゃなくて、ローマの“後継者”を自称する思想的ジャンプでもありました。

 

オットー1世の戴冠が転機

東フランク王国の王だったオットー1世が、962年にローマ教皇から「皇帝冠」を授かります。
これによって彼は“カール大帝以来の正統なローマ皇帝”を名乗るようになり、 ここで初めて「神聖ローマ帝国」の原型ができたとされてるんです。

 

「神聖」「ローマ」という看板の力

「ローマ」って言葉を入れることで、単なるゲルマンの王国じゃなく、全キリスト教世界の秩序を守る“普遍的な帝国”という立場を得たわけですね。
そして「神聖」ってワードは、皇帝権が教会の承認によって正統化されていることを意味していました。

 

違いの比較表

じゃあ実際、両者の違いってどこにあるの?ということで、わかりやすく比較表で整理してみましょう。

 

項目 東フランク王国 神聖ローマ帝国
成立時期 843年(ヴェルダン条約) 962年(オットー1世戴冠)
支配者の称号 王(König) 皇帝(Kaiser)
領域 主にドイツ地域 ドイツ+北イタリア+中欧の一部
政治体制 ゲルマン的王国(部族制色強め) 選挙制・封建制・普遍帝国
宗教との関係 キリスト教王国 皇帝は教会の守護者・冠は教皇から

 

東フランク王国は“素材”、神聖ローマ帝国は“料理された形”

つまり、東フランク王国は神聖ローマ帝国の母体ではあるけど、 政治思想・宗教的権威・領土構成が発展してまったく別の性格を持つようになったんです。
王国から帝国へ、これは単なるスケールアップじゃなくて、価値観のジャンプだったとも言えるんですね。

 

東フランク王国と神聖ローマ帝国、たしかに血はつながってるけど中身は別モノでした。
「王国」だったものが、「普遍の帝国」へと“進化”していく中で、政治も宗教もどんどん複雑化していった――その分かれ目が、この両者の違いなんですよ。