

神聖ローマ帝国というと、皇帝や諸侯、騎士たちが華やかに活躍するイメージがあるかもしれません。でも実際、その社会を根っこで支えていたのは、圧倒的多数を占める「農民」たちでした。全人口の80%以上──彼らが耕し、納め、祈り、そして時に怒って立ち上がることで、帝国の歴史は動いていったのです。
この記事では、神聖ローマ帝国における「農民」とはどんな存在だったのか? その生活、身分的な特徴、そして差別や反乱の歴史まで、わかりやすくかみ砕いて解説します。
まずは、神聖ローマ帝国の農民がどんな仕事をし、どんな日常を送っていたのかを見ていきましょう。
農民たちの仕事の中心はもちろん農業。小麦、大麦、ライ麦などを育て、牛や豚、ニワトリを飼い、必要なものはほとんど自分の家でまかなっていました。時には木を伐り、石を運び、地域の建設にも駆り出されることも。
生活は非常に質素で、住居もわらぶき屋根の土壁が主流。暖房は囲炉裏やかまど、トイレは外。夏は夜明け前から働き、冬は寒さとの戦い──そんな毎日だったのです。
農民には様々な負担が課せられていました。
これに加えて戦争のときは兵糧や馬車の提供を求められるなど、平民の中でも農民はとくに重い義務を負っていたのです。
「農民」=「下の身分の人」というイメージがあるかもしれませんが、じつはその中にも細かい区分がありました。
平民(bürgerlich)とは、基本的に特権を持たない一般の人々のこと。ここには都市の職人や商人も含まれますが、農村に住む農民とは分けて考えられていました。
とくに中世後期になると、都市に住む平民は自治権を得たりギルドを形成するなど、農民より比較的自由で豊かな存在とされていたんです。
神聖ローマ帝国の農民には、大きく分けて以下の2タイプがありました。
自由農民は法的には平民扱いで、村の議会にも参加できた一方で、農奴は「人間としても所有物のように扱われる」存在でした。
ただし、時代や地域によってこの線引きは曖昧で、“半農奴”のような中間的存在も多く見られました。
厳しい身分差と重い税負担に苦しんだ農民たちは、やがて各地で怒りの声を上げていきます。
農民は法の下でも明らかに不平等な扱いを受けていました。騎士や聖職者が罪を犯せば罰金で済むのに、農民が同じことをすればむち打ちや流刑。裁判でも証言の信憑性が低く見なされ、“無知な者”とされがちだったのです。
また、貴族や都市民からはしばしば無教養・野蛮・不潔といった偏見を持たれていました。
そんな農民たちの怒りが一気に爆発したのが、ドイツ農民戦争。宗教改革の影響を受け、「聖書の前では皆平等だ」と叫んだ農民たちは、南ドイツ・スイス・オーストリア各地で反乱を起こします。
彼らは賦役の廃止・公正な裁判・教会の腐敗追放などを要求しましたが、最終的には貴族連合軍に徹底的に鎮圧され、10万人以上が命を落としたとも言われています。
この反乱以降、一部地域では農奴制の緩和が進みますが、逆に取り締まりや支配の強化が進んだ場所もあり、状況は一様ではありません。
それでも農民の声が帝国に影響を与えたことは確かであり、下からの歴史のうねりは、のちの市民革命や自由主義思想へとつながっていくのです。