神聖ローマ王朝史「ハプスブルク朝」とは─皇帝位を世襲化

ハプスブルク朝とは

ハプスブルク朝は1273年にルドルフ1世が皇帝に選ばれたことで始まり、以後ほぼ断続的に神聖ローマ皇帝を輩出した最長の王朝。特に15世紀以降は選帝侯の支持と巧みな婚姻政策によって帝位をほぼ独占し、帝国の「顔」となる。カール5世の時代にはスペイン王位も併せ持ち、「日の沈まぬ帝国」を築いた。ハプスブルク家は皇帝としての統一を追求しつつも、現実にはオーストリアを拠点に自家の領土支配を強化。1806年、フランツ2世の帝位放棄により帝国とともに終焉を迎えた。

神聖ローマ王朝史「ハプスブルク朝」とは─皇帝位を世襲化

神聖ローマ帝国の歴史を語るとき、ハプスブルク家の名前を避けて通ることはできません。帝国後期の皇帝位をほぼ独占し、時に「ヨーロッパを動かした王家」とまで言われるこの一族は、ドイツのみならず、スペイン・イタリア・中欧・バルカン半島にまでその影響力を及ぼしました。


でも、そもそも「ハプスブルク家ってどこから出てきたの?」「なんでそんなに神聖ローマ帝国に強かったの?」「スペインやオーストリアとどう関係あるの?」──そんな疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか。


この記事では、ハプスブルク朝と神聖ローマ帝国の関係を軸に、スペイン・オーストリアとの関係、そして支配領域や首都についてじっくり解説していきます。



ハプスブルク朝の支配領域と首都

では、実際にハプスブルク家が支配していた領域とはどれくらいの広さだったのか? そして「帝国の首都」として機能した都市はどこだったのか? このあたりも見ておきましょう。


支配領域は“モザイク国家”

ハプスブルク朝の支配領域は、時代とともに変化しますが、基本的にドイツ南部・オーストリア・チェコ(ボヘミア)・ハンガリー・イタリア北部などが中心。とくに16世紀以降は複数の王冠を兼ねる形で、まさに「つぎはぎ国家」の様相を呈していました。


それぞれの領地に独自の制度・法律・通貨・言語が存在し、それを束ねていたのが“皇帝”であるという、多層的な支配体制だったんです。


名目上の首都はなかった

神聖ローマ帝国には、現代のような「一つの首都」はありませんでした。皇帝が各地を巡行したり、帝国議会が開催される場所(たとえばレーゲンスブルクなど)が政治の中心となるなど、移動型政権だったんですね。


ただし、16世紀以降になると、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンが事実上の“帝国中心都市”として機能するようになります。


ウィーンの役割の拡大

とくに三十年戦争後、皇帝の権力が形式化するなかで、ウィーンは軍事・行政・外交の実務が集中する都市へと成長。1740年以降のマリア・テレジア時代には、ウィーンはすでに帝国の心臓部となっていました。


つまり、「神聖ローマ帝国の首都はウィーンだった」と言い切ることはできませんが、少なくともハプスブルク家の帝国ではそうだったと言えるでしょう。


ハプスブルク朝の神聖ローマ帝国支配

神聖ローマ帝国の千年史のなかで、最も長く皇帝位を占めたのがハプスブルク家です。その在位期間はなんと約500年。では、なぜこの一族がここまで帝位に根を下ろすことができたのでしょうか?


初登場はルドルフ1世(1273年)

シュタウフェン朝が断絶したあと、皇帝不在の大空位時代が続いていました。1273年、ドイツ諸侯が次の皇帝に選んだのがハプスブルク家のルドルフ1世。これが帝国史上、ハプスブルク家が初めて皇帝に就いた瞬間です。


ただしこの時点では、ハプスブルク家が“常に皇帝”というわけではなく、まだまだ他の諸侯にもチャンスはある状態でした。


1438年から帝位をほぼ独占

本格的にハプスブルク朝が皇帝位を“世襲”的に支配するようになるのは、1438年のアルブレヒト2世以降。以後、1806年に神聖ローマ帝国が消滅するまで、例外は一人だけ(ヴィッテルスバッハ家のカール7世)を除き、すべての皇帝がハプスブルク家出身となります。


この長期政権の背景には、結婚戦略・領土拡張・教皇との協調など、緻密な外交と権謀術数があったんですね。


帝国の象徴的存在へ

16世紀以降になると、神聖ローマ帝国の実権は諸侯に分散され、「皇帝=名誉職」に近いものになります。それでもハプスブルク家はその地位を手放さず、まさに帝国の“顔”として君臨し続ける存在に。


帝国の統一性が崩れる中で、「ハプスブルク家が皇帝であること」自体が一種の秩序になっていったわけです。


ハプスブルク朝のスペイン支配

ハプスブルク家と聞いて「スペインの王家じゃないの?」と思った方、正解です。でもこれは“もともと”ではなく、16世紀に入ってからの話。じつは神聖ローマ皇帝カール5世の代に、ハプスブルク家はヨーロッパを二分する形で分裂することになるんです。


カール5世の二重帝国

16世紀初頭、神聖ローマ皇帝となったカール5世は、同時にスペイン王カルロス1世でもありました。つまり「一人の人物がドイツとスペインを同時に支配」していたということ。


これによりハプスブルク家は、北はオランダ、南はイタリア、そしてアメリカ大陸にまでまたがる超大帝国を築きます。


ハプスブルク家の分裂

でもこの巨大すぎる帝国を一人で治めるのは無理だった…。というわけで、カール5世は退位の際に弟フェルディナントに神聖ローマ帝国を、息子フェリペ2世にスペイン帝国を譲るという決断をします。


こうしてオーストリア系ハプスブルク家(神聖ローマ皇帝)スペイン系ハプスブルク家(スペイン王)が分立し、以後はそれぞれ別の王朝として歩むことになります。


スペイン継承戦争での断絶

スペイン系ハプスブルク家は1700年にカルロス2世の死によって断絶。この王位を巡る争いがスペイン継承戦争へとつながっていくわけですが、この時、神聖ローマ帝国側(オーストリア)はスペイン王位を取り戻そうとするも失敗。


つまり、両者は血縁ではつながっていても、別々の政治体として完全に分離していたことがはっきりする結果となったんです。


お待たせしました。それでは後半、ハプスブルク朝とオーストリアの関係、そしてその支配領域と帝国の中心地について、じっくり解説していきます。


ハプスブルク朝のオーストリア支配

「ハプスブルク家=オーストリア皇帝」というイメージを持っている人も多いはず。でも実は、ハプスブルク家がオーストリアに“定着”するにはちょっとした歴史の積み重ねがあるんです。


オーストリア獲得は13世紀末

ハプスブルク家がドイツ皇帝として登場したのは1273年のルドルフ1世の即位ですが、彼が帝位と引き換えに獲得したのがオーストリア公国。1278年のマルヒフェルトの戦いでボヘミア王を破り、ドナウ川流域の肥沃な地を手に入れたのが最初の大きな転機です。


ここからハプスブルク家は、オーストリアを本拠としつつ帝国の中枢にも食い込んでいくようになります。


オーストリアを拠点に「皇帝家」を維持

その後もハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝として君臨しつつ、オーストリアでは世襲的な領主として君臨。この「帝国の名誉職としての皇帝」と「現実の拠点としてのオーストリア君主」という二重構造こそが、ハプスブルク家の強みでした。


皇帝位が名誉だけになっても、オーストリア大公国=現実の権力基盤があったからこそ、権威を維持できたというわけです。


のちに「オーストリア帝国」へ

1806年、ナポレオンの圧力で神聖ローマ帝国が消滅すると、ハプスブルク家はすぐにオーストリア帝国(のちのオーストリア=ハンガリー帝国)を創設。つまり、帝国という看板を“神聖ローマ”から“オーストリア”にすげ替え、支配体制を維持したんですね。


これ以降、ハプスブルク家は「神聖ローマ皇帝」ではなく、「オーストリア皇帝」として近代に突入していくのです。


「ハプスブルク朝の特徴」まとめ
  • 神聖ローマ帝国との関係:1438年以降、ほぼすべての皇帝位を独占した。
  • スペインとの関係:16世紀に分家化し、スペインとオーストリアに分裂。
  • オーストリアとの関係:1278年に獲得し、実質的な拠点として君臨。
  • 支配領域:ドイツ・オーストリア・ボヘミア・ハンガリーなど多民族・多制度国家。
  • 首都:移動政権だったが、実質的にはウィーンが中心都市に。