
「百年戦争」といえば、フランスとイングランドが延々と戦い続けた有名な大戦争。期間は1337年~1453年、なんと116年間にもわたる長期戦でした。
一見すると、神聖ローマ帝国とは関係なさそうに思えるかもしれませんが、実はこの戦争、じわじわと帝国にも影響を与えていたんです。
この記事では、百年戦争の結果が神聖ローマ帝国にどんな影響を与えたのかを、「政治」「経済」「思想」の3つの切り口からわかりやすく解説します。
他国の戦争は、他人事では終わらなかった──帝国の外交と秩序にも変化が起こります。
百年戦争の末にフランス王権が強化されたことは、神聖ローマ帝国の諸侯たちにとって非常に刺激的な出来事でした。
とくにヴァロワ朝の中央集権化は、「バラバラだった国家でも、長期戦争を通じてまとまるんだな…」という前例として、帝国の中央集権派(特にハプスブルク家)に一定の影響を与えたと考えられています。
戦争で敗北したイングランドは、フランス本土から大きく後退。その結果、大陸内でのイングランドの影響力が低下し、ドイツ諸邦との関係も徐々に薄れていきます。
これにより、帝国内の外交バランスも少しずつフランス寄りに傾いていきました。
長期戦争は貿易・都市経済・通貨制度にも波及しました。
フランス・イングランド間の戦争が激化すると、英仏間の貿易ルートが不安定になり、相対的に神聖ローマ帝国内の内陸交易が見直されるようになります。
とくにハンザ同盟都市やライン川流域の自由都市(ケルン、フランクフルトなど)は、安全で安定した交易ルートとして注目され、経済的な自立性と発言力を高めていったのです。
百年戦争後期には、ヨーロッパ中に“仕事を求める傭兵”があふれました。彼らの一部は帝国諸侯の軍隊に雇われ、結果的に帝国内でも戦争請負人=傭兵国家の風潮が強まるきっかけにもなったといわれています。
最後に、戦争と社会不安が広がったことで、人々の思想や信仰のあり方にも変化が生まれます。
長引く戦争、疫病(特にペスト)、政治の混乱──これらは「神による秩序」の象徴だった中世的世界観に深刻な亀裂を生じさせました。
神聖ローマ帝国内でも、「教皇と皇帝が真に神の代理者なのか?」という普遍的秩序への疑念が強まっていき、やがて宗教改革(ルター派の登場)へとつながる精神的下地が形成されていきます。
フランスが百年戦争で荒廃した結果、パリ大学を中心とした学術ネットワークが一時的に機能不全に。その間にプラハ大学(1348)やハイデルベルク大学(1386)など、帝国内の新たな学問拠点が台頭。
結果的に神聖ローマ帝国内の知的自治が育まれ、「皇帝の名の下に学術を守る」という文脈が強くなっていったのです。