

中世から近世にかけて、神聖ローマ帝国はヨーロッパの“中心”にありましたが、バルト海の向こうにいたスウェーデンは、当初あまり関わりがない遠い存在でした。でも17世紀──ある一人の王が登場したことで状況は激変します。その王こそがグスタフ・アドルフ。彼の登場により、スウェーデンは“北方の軍神”として神聖ローマ帝国の内部にまで深く関与するようになるのです。今回は、両国の関係がどう変化していったのか、歴史の流れを追って整理してみましょう。
スウェーデンは長らく、神聖ローマ帝国とはあまり接点のない“北方の王国”として存在していました。
中世のハンザ同盟を通じて、リューベックやブレーメンなどの帝国都市とスウェーデン商人との間には、交易を通じた交流がありました。ただし政治的な接近はほとんどありませんでした。
16世紀の宗教改革で、スウェーデンはルター派プロテスタントを国教化。一方、神聖ローマ帝国ではカトリックとプロテスタントがせめぎあっていたため、スウェーデンとしても帝国内の宗教勢力図に注目せざるをえなくなります。
ドイツの内政に深く介入することはなく、あくまでバルト海世界のプレイヤーとして動いていました。
1630年、スウェーデン王グスタフ2世アドルフ(1594 - 1632)が三十年戦争に参戦。これが神聖ローマ帝国とスウェーデンの関係を一変させることになります。
カトリック勢力の攻勢に危機感を抱いたスウェーデンは、自国の宗教的・地政学的利益を守るため、神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯を支援する形で戦争に介入します。
グスタフ・アドルフは近代的な戦術と火器戦を駆使し、1631年のブレーテンフェルトの戦いで皇帝軍を撃破。ここでスウェーデンの軍事力がヨーロッパ全土に衝撃を与え、「北方の軍神」と称されるようになります。
スウェーデンは単なる軍事同盟国ではなく、信仰の旗手としてプロテスタント連合の中心となり、神聖ローマ帝国の宗教バランスに決定的な影響を与えました。
グスタフ・アドルフは1632年に戦死するものの、スウェーデンの影響は戦争終結後も残り続けました。
1648年のヴェストファリア条約により、スウェーデンは神聖ローマ帝国の中で帝国等族(Reichsstände)としての地位を得ます。具体的には、以下のような成果がありました:
この時点から、スウェーデンは“外国”というよりは、帝国の一部と深く関わる外部勢力として位置づけられるようになります。
以後の北方戦争や大北方戦争においても、スウェーデンは神聖ローマ帝国内の政治的な紛争に関与しつづけ、ドイツ北部のパワーバランスに重要な役割を果たしつづけました。