神聖ローマ帝国崩壊後のヨーロッパ秩序とは

1806年、神聖ローマ帝国の崩壊―― それは、約1000年も続いた“ローマの理想”がついに終わったという、ヨーロッパ史にとって巨大な区切りでした。
でも帝国が終わったからって、すぐにスッキリまとまるわけじゃないのがこの時代の面白くて厄介なところ。
むしろそのあと、「じゃあこのバラバラのドイツはどうするの?」っていう難問が浮き彫りになっていくんです。
この記事では、神聖ローマ帝国の崩壊後にヨーロッパ、特にドイツ世界がどう再編されていったのかを追ってみましょう!

 

 

まず、帝国崩壊の直後にできたのは?

1806年、皇帝フランツ2世が退位して神聖ローマ帝国が正式に消滅。
でも「じゃあ明日からドイツは全部ナポレオンのものね!」ってことにはなりませんでした。

 

ライン同盟の登場(1806年)

ナポレオンが作ったライン同盟は、旧神聖ローマ帝国内の南西ドイツの諸国をゆるくまとめた連合体です。
これに参加した国々は、事実上神聖ローマ帝国から離脱し、ナポレオンの影響下で独自に外交・軍事行動をとるようになります。

 

ハプスブルク家は「オーストリア帝国」へ

神聖ローマ皇帝だったフランツ2世は、帝国が崩壊する前にちゃっかり「オーストリア皇帝フランツ1世」として即位済み。
こうしてハプスブルク家はオーストリアという新しい国家で生き残ることになります。

 

ナポレオン支配後の再編:ウィーン会議(1815年)

ナポレオン戦争が終わると、ヨーロッパ各国は「もうナポレオンみたいな奴は勘弁して!」とばかりに、新しい秩序づくりに乗り出します。その舞台がウィーン会議です。

 

ドイツ連邦の誕生

神聖ローマ帝国の代わりに、1815年「ドイツ連邦」という緩やかな国家連合が設立されます。
加盟国は35の君主国+4自由都市という構成で、これまた中央権力が超弱い“寄せ集め帝国”だったんです。
神聖ローマ帝国とあんまり変わってない気もしますが、「普遍的なローマ帝国」を名乗るのをやめたという点では、確かな転換でした。

 

“反革命”と“保守主義”の時代へ

ウィーン体制下では、自由主義やナショナリズムは徹底的に抑え込まれ、各国の王様たちが協力して革命の芽を摘んでいくという方針が取られます。
つまり、帝国は終わっても「自由な時代」にはまだならなかったんですね。

 

でも19世紀後半から、空気が変わってくる

やがて時代は産業革命や市民社会の台頭を背景に、「もうバラバラのままじゃダメでしょ」というムードに変わっていきます。

 

ドイツ統一運動の始まり

プロイセンとオーストリアが「どっちがドイツのリーダーになるか」を争う時代へ突入。
これがドイツ統一戦争(1860年代)につながっていき、最終的にはプロイセン主導で1871年にドイツ帝国が成立します。

 

オーストリアはドイツ世界から“脱落”

ドイツ帝国が成立したとき、オーストリアは含まれませんでした。
つまり、かつて神聖ローマ帝国を主導していたハプスブルク家は、新しいドイツ国家の“外側”の存在になってしまったわけです。

 

神聖ローマ帝国が崩壊したあと、ヨーロッパの秩序は「ローマの普遍性」から「民族の現実」へと大きく舵を切りました。
その結果生まれたのが、ナショナリズムや国民国家という近代の基本形。
帝国は消えたけど、その“後始末”は100年かけてようやく完結したんです。
だからこそ、この崩壊は中世の終わりであり、近代ヨーロッパの始まりだったとも言えるんですね。