
中世後期から近世にかけて、ヨーロッパのキリスト教世界とイスラム世界との緊張が高まるなか、その最前線に立たされたのが神聖ローマ帝国オスマン帝国でした。キリスト教とイスラムの“文明の境界線”ともいえるこの2つの帝国、実は単なる宗教対立だけじゃなく、戦争・外交・同盟・内政干渉と、複雑に絡み合う関係を築いていたんです。今回は、そんな両帝国の接触と衝突の歴史を追ってみましょう。
オスマン帝国の拡大は、神聖ローマ帝国にとって十字軍の延長線上の脅威として受け取られました。
14世紀末、オスマン帝国はバルカン半島に進出。特にコソボの戦い(1389年)やニコポリスの戦い(1396年)では、ヨーロッパのキリスト教諸国が連合して立ち向かい、その中には神聖ローマ帝国からの軍勢も含まれていました。
皇帝ジギスムント(1368 - 1437)はニコポリスの敗北を受けて、オスマン帝国に対する防衛戦争を十字軍の一環として位置づけました。ただし、教皇との関係や内政問題もあり、本格的な十字軍には発展しませんでした。
1453年、オスマン帝国が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を滅ぼすと、神聖ローマ帝国を含むキリスト教世界は強いショックを受け、「オスマンの脅威」が現実問題としてのしかかることになります。
近世に入ると、両帝国は本格的に国境を接する勢力として、実利的な争いに突入していきます。
1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死すると、オスマン帝国は中部ハンガリーを占領。対する神聖ローマ皇帝フェルディナント1世はハンガリー王位の継承を主張し、両帝国はハンガリーをめぐって長期の“分割統治”を行うことになります。
オスマン帝国は2度にわたりウィーンを包囲します。これが神聖ローマ帝国とオスマン帝国の対決の象徴的事件であり、とくに1683年の第二次包囲戦では、ポーランド王ヤン3世ソビエスキらの援軍が到着し、オスマン軍を撃退。この勝利が帝国の威信を回復させました。
とはいえ、両帝国は全面戦争ばかりしていたわけではありません。講和条約や停戦交渉も何度も行われ、オスマン帝国に使節を送ることも珍しくありませんでした。
意外にも、オスマン帝国は神聖ローマ帝国の“外”からだけでなく、“中”にも干渉してきました。
16世紀には、フランス王国が神聖ローマ皇帝カール5世に対抗するため、オスマン帝国と秘密裏に手を組む場面もありました。この“背後からの包囲”は、帝国の外交に大きな制約を与えました。
ルター派や他のプロテスタント勢力が帝国の内部で拡大していた頃、ハプスブルク皇帝たちはオスマン帝国との戦争に忙しく、宗教問題に本腰を入れられなかったという事情もあります。
オスマン帝国は地中海~バルカン~中東の交易ルートを押さえており、帝国内の都市国家や商人たちは、オスマン経済圏と間接的に接触することで利益を得ていました。つまり、敵だけど“関わらずにいられない相手”でもあったんですね。