
神聖ローマ帝国とポーランド王国―― どちらも中世〜近世ヨーロッパの中心にいた国なんですが、「このふたつ、どう関わってたの?」と聞かれるとちょっと曖昧ですよね。
じつは彼ら、「接してたけど中に入らない」という、ちょっと不思議な距離感のご近所さんだったんです。
この記事では、神聖ローマ帝国とポーランドの関係がどうだったのか、争ったり協力したりした歴史、そして意外な共通点についてまとめてみましょう!
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まず押さえておきたいのは、ポーランドは神聖ローマ帝国の「外側の国」だということ。
ポーランドは、神聖ローマ帝国の東の隣――現在のチェコやオーストリアのさらに東側に位置していて、一度も正式に神聖ローマ帝国の構成領邦になったことはありません。
でもその距離はめちゃくちゃ近くて、国境を接していた時代も多かったんです。
戦争ばかりしていたわけじゃなく、帝国内の諸侯や皇帝と婚姻関係や外交を結ぶこともしばしば。
とくにハプスブルク家との関係は深く、ポーランド王位をめぐる駆け引きもあったくらいです。
ポーランドは11世紀ごろ、神聖ローマ皇帝の承認を得て「王国」となる道を選びました。
1025年、ポーランド最初の国王となったボレスワフ1世は、それ以前に神聖ローマ皇帝との関係を築いて正統性を高めていたんです。
つまりポーランドは、「皇帝に認められて王を名乗る」という、外交的な立ち回りで地位を確立していきました。
皇帝に臣従する代わりに保護を受ける…という形ではなく、ポーランドは帝国の影響は受けつつも、属国にはならない姿勢を貫いていきます。
そのため、ときには皇帝と対立することもあったんですね。
宗教面では両国ともカトリックでしたが、教会との距離感や政策には違いがありました。
神聖ローマ帝国では皇帝と教皇の対立(叙任権闘争など)が頻発しましたが、ポーランドでは貴族階級(シュラフタ)の力が強く、教会権力を政治的にある程度コントロールできていたんです。
大学・建築・騎士文化など、ドイツ世界からの文化がポーランドに流れ込んだ一方、ポーランドからも騎士団との戦いを通じて国際的な注目が集まるようになります。
とくにグルンヴァルトの戦い(1410)は、ポーランド=リトアニア連合がドイツ騎士団に勝利した象徴的な出来事でした。
15〜18世紀にかけて、神聖ローマ帝国(とくにハプスブルク家)とポーランドの関係は政治的にかなりデリケートになります。
ポーランドは選挙王制を採用していて、時には外国人が王に選ばれることもありました。
ここにたびたびハプスブルク家の皇子やドイツ諸侯が立候補し、国内で「ドイツ派 vs 反ドイツ派」の分裂を生むこともあったんです。
対イスラームの戦いでは、両国が協力する場面もありました。
1683年、ウィーン包囲のときにポーランド王ヤン3世ソビエスキが援軍として登場し、オスマン帝国を撃退したのは有名なエピソードですね。
神聖ローマ帝国とポーランドは、接近しそうでしない、でも目が離せない“東西ヨーロッパの境界線”でした。
属国ではなかったけれど、皇帝の影響は受けていたし、ときには共闘し、ときには王位をめぐって火花を散らした――
そんな“絶妙な距離感”のご近所関係だったんです。