
神聖ローマ帝国のすぐ東に位置し、中世から近世にかけて大国として台頭したポーランド王国──この両国、地理的には隣同士なのに、「皇帝の同盟国」だったこともあれば、「最大の障壁」として立ちはだかったことも。ときに防波堤、ときに競争相手…この関係、なかなか一筋縄ではいきません。今回はそんな神聖ローマ帝国とポーランド王国の複雑な関係を、歴史の流れに沿って整理していきましょう!
中世初期、神聖ローマ帝国は東方への拡大を進めるなかで、スラブ世界との境界線にあたるポーランドと接触していきます。
神聖ローマ初代皇帝オットー1世(912 - 973)は、ポーランドとの接触には慎重でした。当時のポーランドはまだキリスト教化が進んでおらず、「半野蛮の辺境」と見なされていたのです。
11世紀初頭、ポーランド王ボレスワフ1世(967頃 - 1025)は、神聖ローマ帝国と戦いながらも、神聖ローマ皇帝から「王」の称号を認めさせることに成功。これにより、ポーランドは独立したキリスト教国として認知されるようになります。
ポーランドはその後、東方からの遊牧民や異教勢力の侵入を防ぐ防波堤的な役割を担うようになります。モンゴルの侵攻(1241年)では、神聖ローマ帝国の前にまずポーランドが戦場となったことが象徴的ですね。
13世紀以降、ポーランドはただの「辺境」ではなく、バルト海沿岸の強国として勢力を広げ、神聖ローマ帝国と本格的に“張り合う”存在になっていきます。
神聖ローマ帝国内の勢力であるドイツ騎士団が、バルト海沿岸のプロイセン地方で独自の国を築き、これがポーランドと真っ向から対立。1410年のタンネンベルクの戦いでは、ポーランド=リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、帝国側に強い衝撃を与えました。
バルト海貿易をめぐっても、帝国都市(ハンザ同盟)とポーランドの港市が競合。とくにダンツィヒ(グダニスク)は神聖ローマ帝国とポーランドの“間”にある重要な拠点でした。
シレジア(現在の南西ポーランド)は一時期神聖ローマ帝国領として扱われていましたが、次第にポーランド王国に接近。こうした“帝国の縁”にある地域をめぐる綱引きも頻繁に起きていました。
16~18世紀にかけては、ハプスブルク家とポーランド王国の関係が敵と味方を行き来するようになります。
17世紀には、神聖ローマ帝国とポーランド王国がオスマン帝国に対する共同戦線を形成。特に1683年の第二次ウィーン包囲戦では、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ(1629 - 1696)が帝国の救援に駆けつけ、勝利に貢献します。
一方で、ポーランド王位をめぐっては、神聖ローマ皇帝とフランス王が自分の一族を王位に据えようと争うなど、間接的な干渉が相次ぎます。これによりポーランド国内の混乱が拡大し、最終的には分割への道をたどることに。
18世紀末、プロイセン・ロシア・オーストリア(=ハプスブルク家)の三国によってポーランド分割が行われます。オーストリア=神聖ローマ帝国は、ガリツィア地方を獲得し、ポーランドの一部を帝国に組み込むことになりました。