
神聖ローマ帝国とハンガリー王国―― どちらも中世〜近世ヨーロッパの“ドイツ・中欧エリア”で重要な役割を果たしてきた国たちですが、「地理的に近いけど、いまいちどういう関係だったの?」って聞かれると、意外とすんなり答えられないですよね。
実はこの2つの国、戦争と同盟を繰り返しながら、似たような悩みを共有し、ある時期には運命を交差させていたんです。
この記事では、神聖ローマ帝国とハンガリーの関係性・共通点・影響のしあい方を分かりやすく解説していきます!
|
|
まずはざっくりと地理的関係のイメージを掴みましょう。
神聖ローマ帝国は現在のドイツ、オーストリア、チェコなどを中心とした巨大な“ゆる〜い帝国”。
ハンガリー王国は、その南東側(パンノニア平原中心)にあって、バルカンや東ヨーロッパとドイツ世界の“中間地帯”の役割を果たしていました。
ハンガリーは神聖ローマ帝国の正式な構成国ではありませんでしたが、帝国と国境を接していたことで、常に外交・軍事・宗教的な影響を受け合う関係にありました。
お互いに王家の婚姻を通じて同盟を結ぶこともあれば、国境問題や宗教問題で戦争をすることも何度もありました。
「仲良しでもあり、ライバルでもある」という複雑な間柄だったんです。
制度も成り立ちも違うようで、実はけっこう似ていたところもあります。
どちらの国でも、君主は完全な世襲ではなく「選挙で選ばれる王」という特徴を持っていました。
神聖ローマ帝国では選帝侯が皇帝を選び、ハンガリーでも貴族や高位聖職者の合意で王を決める制度が長く続きます。
両国ともカトリック世界の重要な一員で、国王の正統性は“教会との関係”によって担保されていました。
つまり、政治と宗教のパワーバランスに常に頭を悩ませていたわけです。
神聖ローマ帝国は西ヨーロッパの秩序の守り手、ハンガリーは東ヨーロッパやオスマン帝国からの“盾”という役割を果たしてきました。
この点で、どちらもキリスト教世界の“防衛線”として戦う使命を共有していたんです。
とくに注目したいのは、両国の王室や運命が実際に一体化していった時期があるということです。
16世紀、オスマン帝国の侵攻によってハンガリーが大混乱に陥ると、神聖ローマ皇帝でもあったハプスブルク家がハンガリー王位も継承し始めます。
その結果、ハプスブルク家がドイツ・オーストリア・チェコ・ハンガリーをまとめるような体制が成立し、「ドイツ王国」と「ハンガリー王国」がひとつの王家のもとで並列に運営される時代がやってくるんです。
この体制は、のちのオーストリア=ハンガリー二重帝国(1867年以降)につながっていきます。
つまり、もともと神聖ローマ帝国とハンガリーはバラバラだったけど、結果的に政治的には一体化し、共に中欧の軸になっていくんですね。
神聖ローマ帝国とハンガリーは、地理的にも政治的にも“対話しながら並走していた国”でした。
選挙王制、宗教問題、対外防衛――似た課題を抱えつつ、ときに対立し、ときに融合していった関係なんです。
二つの国を比べると、中世ヨーロッパがどれだけ多様でダイナミックな世界だったかがよく見えてきますよ!