
「ハンガリーって、東欧の国でしょ?」「神聖ローマ帝国はドイツでしょ?」──そんなイメージを持っていると、ふたつの関係ってあんまりピンと来ないかもしれません。でも実はこの神聖ローマ帝国とハンガリー王国、戦争だけじゃなく、婚姻・血縁・政治同盟を通じて何世紀にもわたって深~く結びついていたんです。今回は、その複雑でドラマチックな関係をわかりやすく整理してみます!
神聖ローマ帝国とハンガリー王国の関係は、10世紀の建国期からすでに始まっていました。
9世紀末~10世紀初頭、マジャール人によるハンガリー王国が誕生。当初はたびたび神聖ローマ帝国領に侵攻してきたため、帝国にとっては“東方の脅威”でもありました。
神聖ローマ初代皇帝オットー1世(912 - 973)は、955年のレヒフェルトの戦いでハンガリー軍を撃退。これによって帝国の東辺を安定させるとともに、ハンガリー側にも「帝国との共存」の必要性が認識されるようになります。
その後、ハンガリー王イシュトヴァーン1世(在位1000 - 1038)は、バイエルン公家(帝国有力諸侯)の娘ギーゼラと結婚。これがハンガリーと神聖ローマ帝国の最初の“婚姻外交”だったんです。
中世から近世にかけて、両国の縁を強化したのは、実は女性たちの存在でした。
14世紀、神聖ローマ帝国貴族の娘エリーザベトがハンガリー王カーロイ・ローベルトの妃となり、ハンガリー王権の正当性を補強。これによりハンガリー王国と神聖ローマの名門との結びつきがさらに強化されました。
のちに皇帝となるジギスムント(1368 - 1437)は、ハンガリー女王マリアと結婚することで「ハンガリー王」の座を獲得。結果として神聖ローマ皇帝がハンガリー王を兼ねるという状態が生まれたのです。
15世紀後半、皇帝マクシミリアン1世(1459 - 1519)は、ハンガリー王家(ヤギェウォ家)との婚姻を通じて領土拡大を狙います。この流れが、のちのハプスブルク家による「ハンガリー継承」へとつながっていきます。
近世に入ると、神聖ローマ皇帝の家系ハプスブルク家が、ハンガリーの王位をも手に入れ、ついに両国は事実上一体化することに。
1526年、ハンガリー王ラヨシュ2世がオスマン帝国との戦いで戦死。この“空位”をめぐり、ハプスブルク家のフェルディナント1世(1503 - 1564)が王位を主張。以後、ハンガリー王位はハプスブルク家が継承していきます。
ハンガリーはオスマン帝国との最前線となり、神聖ローマ皇帝はハンガリーを「ヨーロッパ防衛の盾」として利用。帝国の安定のためにも、ハンガリー統治は欠かせないものでした。
こうして17世紀以降、ハンガリーは神聖ローマ帝国の「一領邦」ではなかったものの、皇帝と同じ君主を戴く準属国として扱われるようになります。